ニーチェ、ゾロアスター、反復不可能な反復

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 久々に開催したレクチャー。途中「永劫回帰」を巡ってニーチェの話を少ししたのだが、「同じ世界が幾度となく巡ってくる」というこの狂人的なアイデアをニーチェが提出したのはかの『ツァラトゥストラはかく語りき』という著作の中でのことである。さて、ニーチェは一体どこからこのような発想を思いついたのか。研究者の中には、当時、台頭してきていたボルツマンの熱力学からの発想だという人もいるのだが、個人的な私見ではそれは見当はずれのように思えてならない。確かにニーチェは自らの哲学の背景に科学的根拠を導入する必要性を感じてはいたが、熱力学のいうエントロピー概念を永劫回帰に結びつけるにはやはり無理がある。もともとニーチェは古代ギリシアに関する文献学の研究者であり古代思想に精通していた。ニーチェがいたずらにツァラトゥストラに自らの哲学を代弁させたとはとても思えない。ツァラトゥストラとはゾロアスターのドイツ語読みである。となれば、おそらくゾロアスターの思想そのものから永劫回帰は借用されたと考えるのが自然だ。ゾロアスターからエンペドクレスへ。そしてピタゴラスからプラトンへ。プラトンのいう大年周期(26,000年)もまたこの永劫回帰の一つの表現だろう。

 ゾロアスター教はゾロアスターによって説かれた人類最古の預言宗教である。ゾロアスターの出生時期には諸説があって定かではない。古くはB.C.2000年ぐらいとするものからB.C.600年頃とするものまで様々だ。ただゾロアスター教のユダヤ教に対する多大な影響を見て取れれば、ゾロアスターがモーゼよりも以前に生まれたと考えるのが自然だろう。『シリウス革命』でも紹介したように、ヌーソロジー自体、その骨格部分においてゾロアスター思想との共通点が多々あるのだが、参考までにその幾つかを紹介しておこう。

 1、世界は約12,000年ごとに更新される。(ヌーソロジーでは13,000年ごと)
 2、この12,000年は第一の世界(6,000年)と第二の世界(6,000年)に区分される。(ヌーソロジーでいう「潜在化の次元」と「顕在化の次元」に対応すると思われる)
 3、至高神アフラマズダは世界の始源においてまずアフラ神族として6柱神を生んだ。(Ω1~Ω6の形成)
 4、その後双子の兄弟神スプンタ・マンユ(善神)とアンラ・マンユ(悪神)を創造した(Ω7~Ω8の形成)。
 5、アンラ・マンユ(悪神=破壊神)が第一の世界を作る(潜在化の次元/Ω9~Ω10の形成)。
 6、スプンタ・マンユ(善神=創造神)が第二の世界を作る(顕在化の次元/Ω11~Ω12の前半部の形成)。

 ヌーソロジーが用いる大系観察子と呼ばれる概念(Ωで示している記号)を混じえての表記なので、少し分かりにくいかもしれないが、これらのプロセスにΩ11とΩ12の後半部が加わることによって、世界自体は2度の創造活動を経験し、24,000年(ヌーソロジーでは26,000年)で、その完成を迎えるという筋書きになっている。

 ご覧になって分かる通り、ここには現代の科学が明らかにしている宇宙の歴史とは全く違った物語が展開している。科学的知識のみに偏向している人にとっては、これらの内容はオカルトにしか見えないことだろう。まぁ、正真正銘のオカルト(神秘学)ではあるのだが。。しかし、ヌーソロジー的見地から言わせて貰えば、これら宇宙の発展プログラムを押し進めている機構こそが科学が考察している素粒子構造そのものではないかと考えられるのだ。もし素粒子世界と人間の無意識構造を重ね合わせてみることのできる空間認識が人間の意識に立ち上がってきたならば、逆に理性ある人ほど、ここに挙げた内容が狂気には映らなくなるかもしれない。

 OCOT情報によれば、素粒子世界とは本来、時計的な時間の外部に存在しているものだ。ここでいう時計的な時間の外部というものが何を指し示しているかと言えば、それは他ならぬ人間自身の意識の中にアプリオリにセットされている観念の世界である。点の観念、円の観念、球体の観念、さらにはそれを見る観念。。。プラトンの問題提起以来、いかなる思考もこの幾何学的観念の由来の問題に挑んではいない。観念抜きでカタチの描像はあり得ないし、空間や時間の描像もあり得ない。知覚自体がこうした観念の連合によって支えられていると言っても過言ではない。目の前にあるリンゴやパチンコ玉や地球が「丸い球体状のもの」として把握できるのは、こうした観念の力が意識の中でつねに働いているからだ。

 カタチとは見られるものではなく見ているものである(OCOT)――全くその通りではないか。物質の最も基本的な形状を球体とするならば、それを見て取っている観念そのもののカタチが物質の基礎となる陽子だとOCOT情報は伝えている。もしそれが真実ならば、見ているものの力が見られるものの中にそのまま入り込むような機構がこの空間には仕掛けられているということになる。こうした接続にわれわれの理性が気づいたとき、理性は大挙して無時間の世界へと相転移を為すことだろう。そのときはじめて理性は永遠なる女の肌に触れることができる。観念の思惟においてわれわれは物質の根底と結合している。と同時に、物質の根底においてわれわれは創造の始源とも接合している。この接合点へと人々の視線が向き始めることの中にのみ、人間が人間を別の生き物へと変えていく可能性が存在している。

 時間を絶対的な先行者として措定する僕らの思考様式では、当然のことながら世界は歴史によって綴られて行く。しかし、時間を外した思考においては、時間の発生自体が歴史の一部にすぎなくなるだろう。くしくもゾロアスターは言う。創造世界という無限の中ではアンラ・マンユはアフラ・マスダに勝つことはできない。そこでアンラ・マンユは時間を無限から引き離しその寿命を作ったのだと。ならば、時間とはアンラ・マンユが作り出した詭弁にすぎない。観念の構成をいかにして高次元空間の幾何学の中に表現していくか――そして、それをいかにわれわれの実体感覚へと変えて行くか。。ここにヌーソロジーの見果てぬ夢がある。