日食とゾーエー

 昨日は日食の日だった。残念ながら博多は曇り空。期待していたようなド派手な天体ショーは見られなかった。
 
 博多では約9割の部分日蝕だったそうだが、曇り空の下、残る一割の太陽光でも地上を照らし出すには十分だった。薄灰色の空の明るみがとりわけ1/10になるということもなく、さほどの大きな変化は見られなかった。しかし、日食が今、現在ここで起こっているという認識のためか、曇り空の下を照らし出している透過光が食の進行とともに微妙に変質していくような不思議な感覚があった。この感覚はなんなのだろう………?光の質感の微妙な変化。そのせいで空間の質感までもが変わっていく。多少の気温変化のせいもあったのかもしれない。大気がそれまでの緊張感を緩め、徐々にぬめっていく感じがした。そのぬめりは決して心地のいいものではなく、かすかな吐き気を伴う感覚だった。

 何かに似ていると思った。これはかつてどこかで体験した感覚だ——モスクワだ。モスクワの黄昏。もう20年近くも前になる。所用でロシア(当時はソビエト連邦)に行った。モスクワ入りしたのが夕刻でもあったせいか、やたら空港が暗かった(海外の空港は節電のためかほとんどが照明を落としている)。空港からバスで市街地に向かう途中、道路沿いに整然と並べられたナトリウム灯が共産主義が生み出した味気のない建物群を鈍いオレンジ色の光で照らし出していた。ところどころに掲げられたキリル文字のネオンサイン。日本の都市とは似ても似つかぬ情景。そのときのモスクワは僕にとってまるで異星の植民都市のような雰囲気を醸し出していたのだ。グレーがかったオレンジ色で染め上げられた街並は奇妙な湿度を漂わせ、どこか夢見の空間のようでもあった——。
 日食とナトリウム光が具体的にどのような関係にあるのかは分からない。しかし、この二つは確実に何かによって結ばれている感じがする。
  
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 月が太陽を食らう。この現象に一体どのような意味があるというのだろう。古代人は日食を悪魔の仕業と恐れたという。それは現代人にも分かる自然な感情だ。太陽とは大地に恵みをもたらす豊穣なる生命力の象徴であり、太陽抜きで地上の生命は生きることはできない。

 その太陽の営みを月が遮る。それが日食だ。月は何のために太陽の光を遮るのか。月とて生命の母胎として地球上の生物たちに測り知れないほどの影響を与えているではないか。月はなぜ太陽の邪魔をしようとするのか。これは神学的には極めて挑発的な問いかけである。

 太陽が持った生命力と月が持った生命力。この二つの力の間にどのような差異があるのか——すぐに思いつくのはビオス(bios)とゾーエー(zoe)だ。古代ギリシア人たちは生命力には二つの種類があると考えた。ビオスはbiologyの語源ともなっている言葉だが、この言葉には個体的な生命力の意味がある。蝶なら蝶が羽ばたき、魚なら魚が遊泳する。生命力は個体において結晶化し、その生を表現し、謳歌する。

 一方、生命力の全体性を支配している力というものもある。それがゾーエー(zoe)だ。全生物は食物連鎖という形でまるで一つの巨大な多様体のようにして生きている。土の中に微生物が生きていなければ植物は存在しないし、植物が存在しなければ当然のことながら動物もまた存在することはできない。この生命の連鎖運動はビオスが持った個体化を支える力とはある意味対極的な力となっている。なぜなら、生態系全体の流動を守るために個体性が滅びることもあれば、まだ、全体性を浸食していこうと渇望する個体性もある。人間(ホモサピエンス)などはその典型的な例と言っていいだろう。

 ヌーソロジーが展開する思考図式からすると、太陽が持った生命力がビオスで、月が持った生命力がゾーエーである。その意味で、太陽-地球間への月の割り込みである日食はビオスの力を無効にしようと介入してくるゾーエーの力と深い関係を持っている。つまり、日食は生命の全体性への回帰の扉の出現とも言えるものだ(下図1参照)。
 
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 生物において個体化を進める力のソースはおそらく太陽にある。人間においてはそれは理性(アポロン的なもの)として現れてくるのだが、この理性は医学における身体観や政治学における身体観を例に挙げるまでもなく、生命を物質や社会といった枠組の中で外部操作的に扱うことに長けている。こうした局面で思考されている身体の力はすべてビオスに負うところが大きいのではないか。国家が個体の誕生や死を登録、管理し、バイオテクノロジーが個体の遺伝子を操作、制御する。人間はビオスの力を利用し、それによって力は個体性の名のもとに囲われ、生命という大義名分のもとに人工飼育されるのだ。

 月が太陽を食らうという現象は、こうしたビオスの力から逃走しようとするゾーエー側からのカウンター(対抗)と考えられる。地球-月-太陽というトリニティー構造の中で生命エネルギーを円滑にを循環させていくためには、ビオスがもたらす個体化や制度化というエネルギーの萎縮を再度、原初的生命力であるところのゾーエーへと刷新していく必要があるからだ。個体へと凝縮を行ったものは、また、全体へと解放されなければならない。それは生と死、エロスとタナトスの間に働く呼吸でもある。生命エネルギーが持った全体性への放流は地球と太陽、つまり、物質と精神の癒着を無効にし、月に象徴される身体そのもののが持った力を甦らそうとする。身体自身は人間の理性には統御不能な無意識の海であり、そこにはデュオニソス的な情動力が渦巻いている。ベンヤミンの言葉でいえば神的暴力の坩堝である。

 グローバルスタンダードの名のもとに日ごと画一化していく社会に対して、絶えず謀反を起こそうと企てる異端分子的エネルギーはその意味で言えば、神的暴力の力でありゾーエーから迸り出るものだ。個体性にとって全体性は極めて危険な暴徒であり、反対に、全体性にとって個体性は無秩序のカオスを作り出す要因でもある。僕ら人間の生命力は今、ビオスとゾーエーの狭間で大きく揺らいでいる。太陽の時代は終わった。といって月の時代を標榜するのは退行である。のぞむべくは、日食という扉を通して、月と太陽を結ぶルートを敷設する必要があるのだ。そこに流れているものはビオスでもゾーエーでもない、第三の生命力である。その力を目覚めさせるためには、僕らは地球の結び目をほどかなくてはならない。地球の結び目とは物質のことである。