●前後からの光と左右からの光
この絵画の中を満たす光はどこから来ているのだろうか。フーコーは次のように書いている。
「絵は右端のところで寸のつまったパースペクティブにしたがって表象されている窓から、光をうけている。見えているのはほとんど窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは交叉しているとはいえ、ひとつには還元しえぬ二つの隣り合った空間を、おなじようなゆたかさをもって同時にうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の、鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。」(M・フーコー『言葉と物』p.29)
画家とモデルの間を満たす光。それは互いの視野の中にその出口を求めようと先に示した交叉円錐の幾何学に従って溢れ出してくる。しかし、これらの光の出所は結局のところ、この絵の中ではキャンバスの右端のところに位置する輪郭もはっきりとしない窓からである。この窓からもたらされる光線はこれら一連の出来事が起きているサロン自体を柔らかい光で包み込み、この作品自体の不可視の中心となっている王-王妃の瞳孔へと流れ込み、絵に表されている視野空間の情景を作り出している。そして、それはまたこの作品自体のコンポジションを構成したベラスケスの脳裏へもフィードバックされ回収されていることだろう。
しかし、こうした構成だけではこの絵画のフレーム自体を自らの視野とする王はまだ世界の中心たる自分自身のポジションをはっきりと自らの意識に表象化することはできていない。窓から差し込んでくる光は室内に充満して、様々な人物、画家のキャンパス、鏡を照らし出し、そこに視覚では捉えることのできない種々の像を意識のうちに表象化させてはくる。が、しかし、結局のところ、王自身も鏡に映された自分や画家のキャンパスに描かれているであろう自分を表象化することによって、部屋の中の一住人と化し、この作品の視点そのものとしての不可視の中心が持っている本質的な役割は、ただ窓から入射してきてキャンパス内を満たし室内を渦巻く光に委ねられたままだからである。この絵を描くことを可能にしているこうした窓からの光をこの作品のコンポジションに即して「左右からの光」と呼んでみることにしよう。
作品として描かれた光は見紛うことなく「前後からの光」としか言いようのないものであるが(鏡の光も含めて)、ここで前後からの光に照らし出された事物の諸関係をあらわにしている(表象化している)のは実は左右方向からの光(窓から差し込んできている光)だということだ。そして、前後からの光は左右方向からの光の存在に気づいてはいるものの、その光を自分と同一視することはこの時点ではまだできてはいない。
そこでベラスケスはもう一つの仕掛けをこの作品の中に忍び込ませる。つまり、この部屋全体に渦巻いている前後からの光と左右からの光が行っていることの全体性、すなわち前後の光によって画家とモデルとの関係を表象させ、左右の光によって画家とモデルとの関係を表象化していたものを表象化させること、この二つに加えて、今度はその第二の表象化を行った認識の視座自体を表象化する者を象徴として作品の中に盛り込んでくるのである。
それは絵画の中央に配された鏡のすぐ右隣、部屋の出口の階段のところにいるひとりの男として描かれている。この際、彼が何者であるかは問題ではない。いずれしろこの人物は、この部屋で今起こっていることの全体を俯瞰できる立場にある唯一の人物であろう。彼は画家としての描く立場、王-王妃としての描かれる立場、そして、その情景を見ている家臣たちの立場、それらをすべて一望のもとに眺められる立場に立っている。その意味において、彼はこのサロンという閉ざされた一つの全体空間から抜け出る開口部を知っている何者かである。彼が佇むその開口部は単に部屋から水平方向に穿たれた出口という形を取るだけではなく、次元を異にすることを暗に示すために「階段」という形で描かれている。この階段は部屋全体を支配していた二つの光の方向であった前-後、左-右から、さらに上-下という抜け道を知った意識の表象化の力の象徴でもあるだろう。
窓から差し込んで室内に充満していた光とともに不可視の中心となっていたこのモデル(王)の視点は、この第三者たる「階段の男」によって露なものとされ、結果的に、この階段の男の眼差しは王の視点さえも自らのうちに表象化することを可能にしてくる。つまり、世界を客観視する眼差しそのものがここにおいて意識のうちに表象化されてくるのである。これは哲学的に言えば、超越と内在の合体ともいっていい出来事であるだろう。思想史的立場から見れば、この絵画が描かれた古典主義の時代を契機としてあのデカルトの「我思うゆえに、我あり」という言葉で有名な近代理性としての「我」が立ち表れてくることは言うまでもない。
多少、まどろっこしい描写になってしまったかもしれない。次回はこれらの構造をヌーソロジーらしく簡潔な表現で解説することにしよう。
——つづく
4月 16 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』――人間型ゲシュタルトの起源、その3
●前後からの光と左右からの光
この絵画の中を満たす光はどこから来ているのだろうか。フーコーは次のように書いている。
「絵は右端のところで寸のつまったパースペクティブにしたがって表象されている窓から、光をうけている。見えているのはほとんど窪みだけだ。だからその窪みが大きく拡げている光の流れは交叉しているとはいえ、ひとつには還元しえぬ二つの隣り合った空間を、おなじようなゆたかさをもって同時にうるおすのである。画布の表面とそれが表象している立体的空間(すなわち画家のアトリエ、あるいは彼が画架をおいたサロン)、そしてその表面よりも手前の、鑑賞者の占めている現実の立体的空間(あるいはモデルのいる非現実の座)をだ。」(M・フーコー『言葉と物』p.29)
画家とモデルの間を満たす光。それは互いの視野の中にその出口を求めようと先に示した交叉円錐の幾何学に従って溢れ出してくる。しかし、これらの光の出所は結局のところ、この絵の中ではキャンバスの右端のところに位置する輪郭もはっきりとしない窓からである。この窓からもたらされる光線はこれら一連の出来事が起きているサロン自体を柔らかい光で包み込み、この作品自体の不可視の中心となっている王-王妃の瞳孔へと流れ込み、絵に表されている視野空間の情景を作り出している。そして、それはまたこの作品自体のコンポジションを構成したベラスケスの脳裏へもフィードバックされ回収されていることだろう。
しかし、こうした構成だけではこの絵画のフレーム自体を自らの視野とする王はまだ世界の中心たる自分自身のポジションをはっきりと自らの意識に表象化することはできていない。窓から差し込んでくる光は室内に充満して、様々な人物、画家のキャンパス、鏡を照らし出し、そこに視覚では捉えることのできない種々の像を意識のうちに表象化させてはくる。が、しかし、結局のところ、王自身も鏡に映された自分や画家のキャンパスに描かれているであろう自分を表象化することによって、部屋の中の一住人と化し、この作品の視点そのものとしての不可視の中心が持っている本質的な役割は、ただ窓から入射してきてキャンパス内を満たし室内を渦巻く光に委ねられたままだからである。この絵を描くことを可能にしているこうした窓からの光をこの作品のコンポジションに即して「左右からの光」と呼んでみることにしよう。
作品として描かれた光は見紛うことなく「前後からの光」としか言いようのないものであるが(鏡の光も含めて)、ここで前後からの光に照らし出された事物の諸関係をあらわにしている(表象化している)のは実は左右方向からの光(窓から差し込んできている光)だということだ。そして、前後からの光は左右方向からの光の存在に気づいてはいるものの、その光を自分と同一視することはこの時点ではまだできてはいない。
そこでベラスケスはもう一つの仕掛けをこの作品の中に忍び込ませる。つまり、この部屋全体に渦巻いている前後からの光と左右からの光が行っていることの全体性、すなわち前後の光によって画家とモデルとの関係を表象させ、左右の光によって画家とモデルとの関係を表象化していたものを表象化させること、この二つに加えて、今度はその第二の表象化を行った認識の視座自体を表象化する者を象徴として作品の中に盛り込んでくるのである。
それは絵画の中央に配された鏡のすぐ右隣、部屋の出口の階段のところにいるひとりの男として描かれている。この際、彼が何者であるかは問題ではない。いずれしろこの人物は、この部屋で今起こっていることの全体を俯瞰できる立場にある唯一の人物であろう。彼は画家としての描く立場、王-王妃としての描かれる立場、そして、その情景を見ている家臣たちの立場、それらをすべて一望のもとに眺められる立場に立っている。その意味において、彼はこのサロンという閉ざされた一つの全体空間から抜け出る開口部を知っている何者かである。彼が佇むその開口部は単に部屋から水平方向に穿たれた出口という形を取るだけではなく、次元を異にすることを暗に示すために「階段」という形で描かれている。この階段は部屋全体を支配していた二つの光の方向であった前-後、左-右から、さらに上-下という抜け道を知った意識の表象化の力の象徴でもあるだろう。
窓から差し込んで室内に充満していた光とともに不可視の中心となっていたこのモデル(王)の視点は、この第三者たる「階段の男」によって露なものとされ、結果的に、この階段の男の眼差しは王の視点さえも自らのうちに表象化することを可能にしてくる。つまり、世界を客観視する眼差しそのものがここにおいて意識のうちに表象化されてくるのである。これは哲学的に言えば、超越と内在の合体ともいっていい出来事であるだろう。思想史的立場から見れば、この絵画が描かれた古典主義の時代を契機としてあのデカルトの「我思うゆえに、我あり」という言葉で有名な近代理性としての「我」が立ち表れてくることは言うまでもない。
多少、まどろっこしい描写になってしまったかもしれない。次回はこれらの構造をヌーソロジーらしく簡潔な表現で解説することにしよう。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト