ロッジの方でnooobie(ヌービー)さんという方がご自身の日記にベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』(上図)という絵画をUPされていた。この作品がヌーソロジーの観察子概念であるψ3〜ψ4と関係があるのではないかという問題意識からである。無意識というものが視線の幾何学によって構造化されていると考えるヌーソロジーにとっては、このnooobieさんの問題提起はヌーソロジーの王道をいくものであり、僕はすぐに以下のようなコメントをつけた。
>nooobieさん、こんにちは。フーコーの『言葉と物』のしょっぱなにこの絵のことが解説されてますね。nooobieさんのおっしゃる通り、この絵には様々な観察子のレベルが幾重にも入り込んで、秀逸なアイデアを以て表現されているように感じます。ψ3~ψ4は言うに及ばず、ψ*3~ψ*4、そしてそれらが織りなすキアスム、さらにはそのキアスムを統合する視点まで盛り込まれていると解釈することも可能ですね。
『言葉と物』においてフーコーは、この絵画上における視線の交差の分析を通じて古典主義時代(ルネサンス期から近代の橋渡しの時代)における知の在り方についての分析を行っています。知の在り方というのが分かりにくければ、主体の在り方と言ってもいいかな。主体がどのようなやり方で自身の意識を綜合させているかということを、この絵画の中で交錯している様々な視線の関係性から解説を試みています。
フーコー自体の分析はかなり難解なので(というか、言い回しがまどろっこしい)、僕のレビューにも挙げた大澤真幸さんの『資本主義のパラドックス』を是非、お読みになられてみるといいと思います。大澤氏はフーコーが言いたかったことをもう一歩分かりやすく解説してくれていまから、nooobieさんをクラクラさせている幻惑が少しは明晰な幾何学となって整理されてくるかもしれません。
ちなみに、大澤氏の解説を読む限り、この絵画に含まれているすべての視線ははヌーソロジーでいうψ9~ψ10のシステムまでをすべて網羅して、ψ11~ψ12の段階へとまさに突入せんというところの状態だと言えそうです。ヌーソロジーの文脈では、古典主義の時代というのは、実際、ψ9~ψ10からψ11~ψ12に向かう転換点のような時期に当たると考えていたので、そのへんの論説を補強する材料として使えます。新著でもこの絵を題材にして、思形や感性の説明をしようと思っていたところだったのですが、nooobieさんのいきなりのUPにちょっとビックリです(笑)。
* * *
絵画を思考によってこと細かく分析することを感性の蹂躙だとして嫌う人たちもいるが、絵画の歴史の中には「さぁ、この絵のナゾを解けるもんなら解いてみろ」といわんばかりの作品が時折、登場してくる。このヴェラスケスの作品もその中の一つと言っていいだろう。人間において実際に見えている世界、つまり「人間の外面」という場所に精神が息づくと考えるヌーソロジーにとって、絵画史とは精神の有り様の履歴でもある。絵画が意識の表象を表象するものである限り、人間の創造力が見えている世界をどのように表象するのかというその表象の仕方、させ方の中にその時代時代の精神の様態が表象されていると考えるのはきわめて自然なことでもある。そして、多くの絵画評論が語るように、絵画における表象の在り方は人間の歴史の進展とともに多くの変遷を見せてきた。
フーコーがこの『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析で言いたかったことは、古典主義の時代(17世紀〜18世紀iにかけての西欧)において表象を通しての思考体系の基盤が完成されたということである。「表象を通しての思考体系」とは、簡単に言えば、見えるものにすべてが還元され、思考がその中から一歩も出られないような場のシステムいったような意味だ。古典主義の時代に確立されたこの思考体系は同時にデカルトの「我思う、ゆえに我あり」における「我」なる存在を生み出したと考えられるのだが、これは近代という時代を絶えずリードしてきた近代理性の主(あるじ)としての「わたし」のことにほかならない。理性=明らかにする力。そして、この明らかにする力というのは目の力のことでもあり、それは隠されていたものを表層へとえぐり出す行為、すなわち表象化する力のことにほかならない。しかし、ここで注意しなければならないのは、表象とはその原語がre-resentation=再-現前化することの意でもあるということだ。それはあくまでもリプレイされた現前であり、事物そのものの現れのことではない。リプレイされた像によって世界がすべて覆い尽くされてしまうということは、むしろ事物のそのものの現れをすべて隠蔽するためのシステムとも言える。そして、このリプレイする力こそがヌーソロジーで「人間型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのである。世界が人間型ゲシュタルトで覆い尽くされしまう契機がこの作品には表象されている、というわけである。
では、一体、この作品の何が、世界を表象で満たし、その表象が作り出すシステムから一歩も出ることのできない「わたし」を表象させているというのだろうか。ここではフーコーの分析を下地にしてヌーソロジーからの分析のあらすじを簡単に書き加えてみることにしよう。
——次回につづく
4月 5 2009
『ラス・メニーナス(侍女たち)』——人間型ゲシュタルトの起源、その1
ロッジの方でnooobie(ヌービー)さんという方がご自身の日記にベラスケスの『ラス・メニーナス(侍女たち)』(上図)という絵画をUPされていた。この作品がヌーソロジーの観察子概念であるψ3〜ψ4と関係があるのではないかという問題意識からである。無意識というものが視線の幾何学によって構造化されていると考えるヌーソロジーにとっては、このnooobieさんの問題提起はヌーソロジーの王道をいくものであり、僕はすぐに以下のようなコメントをつけた。
>nooobieさん、こんにちは。フーコーの『言葉と物』のしょっぱなにこの絵のことが解説されてますね。nooobieさんのおっしゃる通り、この絵には様々な観察子のレベルが幾重にも入り込んで、秀逸なアイデアを以て表現されているように感じます。ψ3~ψ4は言うに及ばず、ψ*3~ψ*4、そしてそれらが織りなすキアスム、さらにはそのキアスムを統合する視点まで盛り込まれていると解釈することも可能ですね。
『言葉と物』においてフーコーは、この絵画上における視線の交差の分析を通じて古典主義時代(ルネサンス期から近代の橋渡しの時代)における知の在り方についての分析を行っています。知の在り方というのが分かりにくければ、主体の在り方と言ってもいいかな。主体がどのようなやり方で自身の意識を綜合させているかということを、この絵画の中で交錯している様々な視線の関係性から解説を試みています。 フーコー自体の分析はかなり難解なので(というか、言い回しがまどろっこしい)、僕のレビューにも挙げた大澤真幸さんの『資本主義のパラドックス』を是非、お読みになられてみるといいと思います。大澤氏はフーコーが言いたかったことをもう一歩分かりやすく解説してくれていまから、nooobieさんをクラクラさせている幻惑が少しは明晰な幾何学となって整理されてくるかもしれません。
ちなみに、大澤氏の解説を読む限り、この絵画に含まれているすべての視線ははヌーソロジーでいうψ9~ψ10のシステムまでをすべて網羅して、ψ11~ψ12の段階へとまさに突入せんというところの状態だと言えそうです。ヌーソロジーの文脈では、古典主義の時代というのは、実際、ψ9~ψ10からψ11~ψ12に向かう転換点のような時期に当たると考えていたので、そのへんの論説を補強する材料として使えます。新著でもこの絵を題材にして、思形や感性の説明をしようと思っていたところだったのですが、nooobieさんのいきなりのUPにちょっとビックリです(笑)。
* * *
絵画を思考によってこと細かく分析することを感性の蹂躙だとして嫌う人たちもいるが、絵画の歴史の中には「さぁ、この絵のナゾを解けるもんなら解いてみろ」といわんばかりの作品が時折、登場してくる。このヴェラスケスの作品もその中の一つと言っていいだろう。人間において実際に見えている世界、つまり「人間の外面」という場所に精神が息づくと考えるヌーソロジーにとって、絵画史とは精神の有り様の履歴でもある。絵画が意識の表象を表象するものである限り、人間の創造力が見えている世界をどのように表象するのかというその表象の仕方、させ方の中にその時代時代の精神の様態が表象されていると考えるのはきわめて自然なことでもある。そして、多くの絵画評論が語るように、絵画における表象の在り方は人間の歴史の進展とともに多くの変遷を見せてきた。
フーコーがこの『ラス・メニーナス(侍女たち)』の分析で言いたかったことは、古典主義の時代(17世紀〜18世紀iにかけての西欧)において表象を通しての思考体系の基盤が完成されたということである。「表象を通しての思考体系」とは、簡単に言えば、見えるものにすべてが還元され、思考がその中から一歩も出られないような場のシステムいったような意味だ。古典主義の時代に確立されたこの思考体系は同時にデカルトの「我思う、ゆえに我あり」における「我」なる存在を生み出したと考えられるのだが、これは近代という時代を絶えずリードしてきた近代理性の主(あるじ)としての「わたし」のことにほかならない。理性=明らかにする力。そして、この明らかにする力というのは目の力のことでもあり、それは隠されていたものを表層へとえぐり出す行為、すなわち表象化する力のことにほかならない。しかし、ここで注意しなければならないのは、表象とはその原語がre-resentation=再-現前化することの意でもあるということだ。それはあくまでもリプレイされた現前であり、事物そのものの現れのことではない。リプレイされた像によって世界がすべて覆い尽くされてしまうということは、むしろ事物のそのものの現れをすべて隠蔽するためのシステムとも言える。そして、このリプレイする力こそがヌーソロジーで「人間型ゲシュタルト」と呼んでいるもののことなのである。世界が人間型ゲシュタルトで覆い尽くされしまう契機がこの作品には表象されている、というわけである。
では、一体、この作品の何が、世界を表象で満たし、その表象が作り出すシステムから一歩も出ることのできない「わたし」を表象させているというのだろうか。ここではフーコーの分析を下地にしてヌーソロジーからの分析のあらすじを簡単に書き加えてみることにしよう。
——次回につづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ラス・メニーナス • 0 • Tags: フーコー, ラス・メニーナス, 人間型ゲシュタルト, 内面と外面