●交信記録19940320
地球に対する月の公転周期28日とは何を意味するのですか。以前に付帯質が等化を行うまでの次元の数とありましたが、それは正しいのですか。
はい。
太陽に対する地球の公転周期1年とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における覚醒を起こす対化の数です。
1年の間に月は地球の周りを約13回公転します。このときの「13」とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における進化への反映を起こす対化の数と考えられるといいでしょう。
地球の一自転、すなわち一日とは何を意味するのですか。
精神が精神を交差する位置です。
1年が約365日になるのはどのような意味があるのですか。前に「365とは等化のカタチを持ったものすべてを表す次元数」といわれましたが、それは「精神の内面と外面を等化したものが再び付帯質を形作るまでの次元数」と同じような意味ですか。
方向性としては全く同じですが、正確には変換作用における対化の等化における次元数に当たります。
地球に対する月の公転と自転の周期が全く同じなのは付帯質の内面と付帯質の外面が全く等しい力で働いていることを意味するのですか。
はい、そうです。付帯質としての力の方向性が全く同じ力で働いているからです。
月の公転が付帯質の内面の次元で、月の自転が付帯質の外面の次元と考えてよいですか。
はい、よろしいです。
それは人間にとっての善なるものと悪なるものの関係と同じですか。
人間が本来の方向性を反転させていることを悪とするのならば、同じことを意味します。
■解説
さて、いよいよ天体についての情報が出てきた。例によって「難解な、あまりに難解な」OCOTによる説明が綴られている。「取りつく島もない」というのはまさにこのことだ。
以前、『シリウス革命』にも書いたように占星学や神秘学などとの擦り合わせで、ある程度、惑星の持っている意味はヌーソロジーの観点からも辻褄合わせを行うことはできる。しかし、ミクロ空間と違って、マクロ空間に対しては僕自身まだ肝心の描像がしっくりときてはいない。ここでいう「描像」とは、ちょっと抽象的な言い回しになるが、「大陽系空間が一体、どのような観念の表現空間であるのか」という意味での描像だ。いや、一気に大陽系空間にまで飛躍するのは身のほど知らずと言うべきかもしれない。それ以前に地球の外部に広がっている空間とは一体いかなる意味を持つ空間なのかをヌーソロジーの思考から深く再考する必要性がある。近代理性の目で大陽系を見て、そこにいくら問いかけたとしても、おそらく大陽系は自身の出生の秘密を微塵たりとも明かしてはくれないだろう。
哲学でもよく言われることだが、人間の理性の目というのは架空のオールマイティーな視座から世界を見て、あたかも自らが神であるかのように振る舞っている。例えば、科学番組ではよく原始の地球の姿がCGで再現されたりする。ドロドロの溶岩が地表を覆い、そこに分厚い雨雲が覆い、長期間、雨が降り続け、溶岩を徐々に冷やして行く様子がCGのカメラアイによって描写される。しかしここで僕らは慎重になる必要がある。一体、誰がその様子を見ているというのか。そこで原初の地球を見ている目とは一体誰の目なのか。この科学自身が描く宇宙史の中では、原初の地球においては世界を見ることを可能にする眼球どころか未だ微生物の元となる有機物さえも発生していないのである。科学的理性はこの矛盾、ならびにその越権行為に対してあまりに無頓着すぎるのだ。
科学的理性は自らが思考対象とする物質というシステムの中では極めて精緻で素晴らしい理論構築を行う。これはもちろん賞賛に値することは言うまでもない。しかし、その一方で、認識や意識の問題を全く考慮していないために、世界が差異で成り立っていることをほとんど忘却している。世界は観察者という差異を含んで初めて世界として成立し得るのであり、この観察をなし得ている力は時空に散在する物質という同一性の中で説明し得るものでは決してない。脳内のシナプスの発火が意識を生じせしめているとして、一体、その発火がどのように意識の発生と結びつくというのか、それに対して科学は語る言葉を持たない。
この生の現場に、様々な関係性のタベストリーで織り込まれた者。それが現存在、世界内存在としての「わたし」である。それは意識という現象の名のもとに立ち表れた存在を構成しているであろう諸関係の総体の綴じ目のようなものでしかない。この綴じ目のもとに時間や空間、さらには地球や大陽系が存在しているのであって、その逆では決してないのである。自身の今見ている現実(リアル)、そしてそれを支えている諸観念から乖離することなく世界を見つめることが肝要なのだ。それによって初めて「わたし」は星の秘密と接続することが可能になる。いつも言ってることたが、惑星は決して単なる土塊として機械的に回転しているのではない。科学的理性にはまだ見えてきてはいないが、それは僕らの精神を形作ってい高次元精神の活動の痕跡(トレース)なのだ。
とは言ったものの、一体いかにして、世界内存在としての「わたし」から見た地球や惑星にアクセスすることができるというのだろうか。そのためにはまずは身体から広がっている空間というものがどのような観念を含んでいるかを注意深く探索しなければならない。その諸観念が見えてきてこそ、僕らは真の地球に、不動の大地としての地球に立つことができる。当然、その先には不動の月、そして不動の太陽が待っていることだろう——つづく
上画像はhttp://www.ne.jp/asahi/tk/7777/universe/pastuniverse.htmより借用しました。
2月 26 2009
地球、月、太陽の本質(1)
●交信記録19940320
地球に対する月の公転周期28日とは何を意味するのですか。以前に付帯質が等化を行うまでの次元の数とありましたが、それは正しいのですか。
はい。
太陽に対する地球の公転周期1年とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における覚醒を起こす対化の数です。
1年の間に月は地球の周りを約13回公転します。このときの「13」とは何を意味するのでしょうか。
人間の意識における進化への反映を起こす対化の数と考えられるといいでしょう。
地球の一自転、すなわち一日とは何を意味するのですか。
精神が精神を交差する位置です。
1年が約365日になるのはどのような意味があるのですか。前に「365とは等化のカタチを持ったものすべてを表す次元数」といわれましたが、それは「精神の内面と外面を等化したものが再び付帯質を形作るまでの次元数」と同じような意味ですか。
方向性としては全く同じですが、正確には変換作用における対化の等化における次元数に当たります。
地球に対する月の公転と自転の周期が全く同じなのは付帯質の内面と付帯質の外面が全く等しい力で働いていることを意味するのですか。
はい、そうです。付帯質としての力の方向性が全く同じ力で働いているからです。
月の公転が付帯質の内面の次元で、月の自転が付帯質の外面の次元と考えてよいですか。
はい、よろしいです。
それは人間にとっての善なるものと悪なるものの関係と同じですか。
人間が本来の方向性を反転させていることを悪とするのならば、同じことを意味します。
■解説
さて、いよいよ天体についての情報が出てきた。例によって「難解な、あまりに難解な」OCOTによる説明が綴られている。「取りつく島もない」というのはまさにこのことだ。
以前、『シリウス革命』にも書いたように占星学や神秘学などとの擦り合わせで、ある程度、惑星の持っている意味はヌーソロジーの観点からも辻褄合わせを行うことはできる。しかし、ミクロ空間と違って、マクロ空間に対しては僕自身まだ肝心の描像がしっくりときてはいない。ここでいう「描像」とは、ちょっと抽象的な言い回しになるが、「大陽系空間が一体、どのような観念の表現空間であるのか」という意味での描像だ。いや、一気に大陽系空間にまで飛躍するのは身のほど知らずと言うべきかもしれない。それ以前に地球の外部に広がっている空間とは一体いかなる意味を持つ空間なのかをヌーソロジーの思考から深く再考する必要性がある。近代理性の目で大陽系を見て、そこにいくら問いかけたとしても、おそらく大陽系は自身の出生の秘密を微塵たりとも明かしてはくれないだろう。
哲学でもよく言われることだが、人間の理性の目というのは架空のオールマイティーな視座から世界を見て、あたかも自らが神であるかのように振る舞っている。例えば、科学番組ではよく原始の地球の姿がCGで再現されたりする。ドロドロの溶岩が地表を覆い、そこに分厚い雨雲が覆い、長期間、雨が降り続け、溶岩を徐々に冷やして行く様子がCGのカメラアイによって描写される。しかしここで僕らは慎重になる必要がある。一体、誰がその様子を見ているというのか。そこで原初の地球を見ている目とは一体誰の目なのか。この科学自身が描く宇宙史の中では、原初の地球においては世界を見ることを可能にする眼球どころか未だ微生物の元となる有機物さえも発生していないのである。科学的理性はこの矛盾、ならびにその越権行為に対してあまりに無頓着すぎるのだ。
科学的理性は自らが思考対象とする物質というシステムの中では極めて精緻で素晴らしい理論構築を行う。これはもちろん賞賛に値することは言うまでもない。しかし、その一方で、認識や意識の問題を全く考慮していないために、世界が差異で成り立っていることをほとんど忘却している。世界は観察者という差異を含んで初めて世界として成立し得るのであり、この観察をなし得ている力は時空に散在する物質という同一性の中で説明し得るものでは決してない。脳内のシナプスの発火が意識を生じせしめているとして、一体、その発火がどのように意識の発生と結びつくというのか、それに対して科学は語る言葉を持たない。
この生の現場に、様々な関係性のタベストリーで織り込まれた者。それが現存在、世界内存在としての「わたし」である。それは意識という現象の名のもとに立ち表れた存在を構成しているであろう諸関係の総体の綴じ目のようなものでしかない。この綴じ目のもとに時間や空間、さらには地球や大陽系が存在しているのであって、その逆では決してないのである。自身の今見ている現実(リアル)、そしてそれを支えている諸観念から乖離することなく世界を見つめることが肝要なのだ。それによって初めて「わたし」は星の秘密と接続することが可能になる。いつも言ってることたが、惑星は決して単なる土塊として機械的に回転しているのではない。科学的理性にはまだ見えてきてはいないが、それは僕らの精神を形作ってい高次元精神の活動の痕跡(トレース)なのだ。
とは言ったものの、一体いかにして、世界内存在としての「わたし」から見た地球や惑星にアクセスすることができるというのだろうか。そのためにはまずは身体から広がっている空間というものがどのような観念を含んでいるかを注意深く探索しなければならない。その諸観念が見えてきてこそ、僕らは真の地球に、不動の大地としての地球に立つことができる。当然、その先には不動の月、そして不動の太陽が待っていることだろう——つづく
上画像はhttp://www.ne.jp/asahi/tk/7777/universe/pastuniverse.htmより借用しました。
By kohsen • 04_シリウスファイル解説 • 0 • Tags: シリウス革命, 付帯質, 内面と外面, 神秘学