シャンバラ、地底人、そして大気的人間

 前回解説した「宇宙空間から大気圏への反転」という図の内容について、何を言っているのか意味不明に感じている人もいるだろから少し捕捉しておく。

 わたしたちは地球を見ていると思っている。大地に立ち、地球は何て美しい場所なんだとわたしたちはときに感動する。だから、わたしたちが地球を見ているのは事実だと言い張る人がほとんどなのもよく理解できる。しかし、慎重に考えてみよう。果たしてそれはほんとうだろうか。わたしたちはほんとうに地球を見ているのだろうか。

 他者が見ているモノと自己が見ているモノが互いに反転しているということは、このブログでも何回も話してきた。通常、僕らの意識にそのように見えないのは意識が自らを他者化させて認識しているからである。意識はわたしを外側から見る視点を作り出し、他者が存在している空間と同じ場所にわたしの身体を放り出す。それによってわたしは他者と同類頃となり、そこに想定された無数の視点の下でモノを捉えているので、モノの界面は単なる2次元の球面に見え、他者が見ているモノとわたしが見ているモノとは同じ3次元の中に浮かぶ3次元の球体だと判断しているのだ。

 こうした自分を他者空間に投げ込んだ視線をまずは消そうと言っているのがヌーソロジーの入口だ。これは哲学で言えば、フッサール現象学が生活世界と呼んだ世界にまずは戻れ、という意味である。実際、自分に見えている世界の中では自分の目は見えない。生活世界の中では自分の目は世界の中心に位置し、その位置をわたしが外部から見るなど到底不可能なことである。しかし、ほとんどの人がそれを外部から見ている気になっている。いつも言っているように、これは鏡像空間だ。実際のリアルな空間ではない。

 そこでもう一度、尋ねてみたい。君はほんとうに地球を見ているのか?アポロ宇宙船の飛行士たちが青く輝く地球を初めて球体の映像として捉えたのは記憶に新しい。地上では果てしなく続くように見える大地も、上空に昇れば丸みを帯びてきて、成層圏を超えれば、確かにこの大地は球体に見えてくることだろう。しかし、それを実際に見ることと、その様子を想像することには雲泥の差がある。なぜなら、前者はリアルな空間だが、後者は鏡像空間だからだ。鏡像空間の中で地球を見ると、わたしは地球上を這い回るちっぽけな一匹の微生物のように見えてしまう。アポロからの地球を見て、その中で日本列島を探し、またその中で、自分が住んでいる街を探す。わぁ〜、地球と比べるとなんてオレはちっぽけなんだ。。。こうした想像がマクロ宇宙という概念を支えていると知るのは容易い。

 確かに、わたしたちは地球を見ていると思っている。しかし、それは鏡(他者の視野)の中の空間を通して見ているだけなのだ。わたしたちが宇宙空間は広大で巨大なものと思っているならば、そこはすべて鏡の中と思ったほうがいい。そうした鏡の中の空間に客観的点を打ち、そこから空間の広がりを自在に象っている意識。ヌーソロジーはそれが水素原子核とその周囲を回る電子だと言っているわけだ。ヘリウムはそれをリアル空間の方に引き戻そうとしている。宇宙空間が水素とヘリウムに満たされているのは、そのような僕ら現代人の認識が天上を覆っているからだ。

 OCOTはかつて面白いことを言っていた。

曰く、あなたがたが見ている宇宙はすべて地球の中です——。

 鏡映は4次元をひっくり返す。ある意味,内部と外部の反転だ。他者が見ている地球が存在する空間に自己がはまり込めば、わたしにとって確かにそれは地球の内部だということになる。となれば、逆もまた真なりで、ほんとうの地球の外部は、僕らが現在、地球の内部と呼んでいる場所に存在していることになるだろう。そこは現在の僕らにとっては「地底」と呼ばれているところだが、実際にはモノ自体ならぬ地球自体がそこに存在しているのだろう。そして、そこは自己の場が知覚世界そのものとして見えている、無時間に住む意識たちの住処でもある。彼らはかの伝説のシャンバラに住む地底人だとも言える。こうした内と外の存在に鏡像たちが気づけば、鏡像は大気的人間へと生まれ変われるはずだ。