時間と別れるための50の方法(54)

前回の続きです。

3、第3のたま 次元観察子ψ5~ψ6………垂質次元(聴覚空間?)
 観測者が自分自身の身体を3軸回転させたときに、自分の前側の綜合によって形成されてくる球空間(知覚球体)と、そのとき同時に形成される背後方向側を半径とする球空間。前者がψ5で後者がψ6になる。ここで「前」は見えるが「後」は見えていないということに注意。この段階で、自己を規定する場所性が空間領域として規定されることになる。ψ5の半径に当たる部分は人間の外面なのでψ3と同様に一点で同一視されて潰されており、結果、ψ5の球空間は微小半径を持つ3次元球面(この時点ではまだ多様体ではない)となっており、この球面の自転軸(絶対的前としての視線)が数学的にはスピノールになっていると予想される。ψ6はψ5の逆側。すなわち絶対的後(下図1参照)。
 
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 ψ5の球空間はイメージしやすいでしょう。単に「わたし」の周囲に見えている球空間のことです。ただし、球空間と言っても、普段僕らが3次元空間として認識している場ではなく、奥行きの潰れによってミクロに収縮した主体自身の位置であるということに注意して下さい。この球空間の中には上図1のように無数の垂子(ψ3~ψ4=モノの図と地)が見えているのが分ります。このことは人間の個体を規定する空間が無数の主観的なモノから構成されているということを意味しています。それぞれの垂子にはモノ一つにまつわる記憶がすべて入り込んでいるわけですから、このψ5の球空間には観測者がこの地上に生まれてからのすべての記憶が詰まっているということになります。それらの記憶に時系列を与えて時間の経過として順序立てているのはψ6とψ*6を同一化させているψ8の次元です。時間とはすべての精神階層における中和の総体が生み出しているものだと考えられます。

 ψ5が人間の内面側へと反転したψ6は言うまでもなく中和作用側ですから、ψ5とψ*5の相殺の結果として生み出されたものです。ψ6は自己の後側が回転して構成されている球空間のイメージになりますが、それは自己側から見た他者の前方向を半径とした球空間とも言えます(背中合わせの自己と他者)。今、あなたの目の前に他者がいて、その他者の目から発する視線がグルリと回転したときに構成されている球空間を想像してみて下さい。そのとき、おそらくあなたには他者が巨大な宇宙空間にポツンと一人点打ちされたような存在として見えていることでしょう。もし他者のそばにモノがあれば、あなたにとってはそのモノの外部に広がっている空間と、他者から広がっている空間には何の違いもないように見えているはずです。もっと言えば、それはバスケットボールの内部を膨張させた空間とも違わないはずです。しかし、少し注意して考えれば、他者から広がっているψ6の球空間にはψ*5としての他者の実存的な空間が内蔵されているのが推測できます。その意味でこのψ6は、中和された空間ではあるのですが、ψ1~ψ2領域(バスケットボールの内部)やψ3~ψ4領域(傍らのモノの外部空間)よりも一段階次元の階層が上がった空間です。僕らの認識では一見のっぺらぼうのように平板的に見える身の回りの空間は、このように多重なレイヤー構造を持って存在しているのです。

4、第4のたま 次元観察子ψ7~ψ8………球精神次元(名の発生空間?)
 自分の位置を対象の中心点にイメージし、視線をその対象の奥行き方向の半径と見る。これがψ5。こうした状況で、対象の周囲に無数の他者を配置して、それら一人一人のψ5としての視線の対象への入り込みをイメージする。結果的に、対象の内部は自他の視線で埋め尽くされることになる。この視線を綜合した球空間が次元観察子ψ7と考えていい。
 一方、ψ8はψ7の逆方向となる。同じく、自分の位置を対象の中心点にイメージし、そこで自分の背後方向を想像してみる。この方向性はモノの中心点からモノの外側にある肉体としての自分の顔面を突き抜け背後方向へと無限に延びていく。これがψ6。そして、ψ7のときと同様、対象の周囲に無数の他者を配置して、他者においても同じ状況を想定する。結果的にモノの内部と外部は身体の背後空間で埋め尽くされることになる。この球空間が次元観察子ψ8と考えていい。(下図2参照)
 
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 たぶん、このψ7~ψ8の描像が皆さんにとって一番厄介なものになっていることでしょう。というのも、ここで人間の意識に深く入り込んだ3次元的思考が4次元への脱出を妨害するからです。この4次元の方向性を描像するためは以前も言ったように、知覚球体自体を一本の線分と見なす必要があります。しかし、僕らが慣れ親しんでいる3次元認識では、どうしても球体が線のようには見えてこないはずです。この理由は3次元認識が世界を知覚している身体をも3次元空間の中に投げ込んでいることにあります。こうしたイメージの中では、前後、左右、上下という身体における3軸はモノの(x,y,z)軸と何ら変わるものではなくなってしまいます。この認識が4次元の通路の障害物となっているのです。

 第35回目の『眉間鉛筆』のところでも書いたように、4次元方向は「わたしは動いてはいない」という感覚の内で捉えられた身体空間の中から浮上してきます。「わたしが動いているのではなく、世界の側が動いている。」そう考えることによって、「わたし」は3次元空間内へのモノとの同一化から解放され、無限遠点という3次元を超越した位置に立つことができるようになるということです。そして、その位置からは現象界のすべてがこの身体の「前」という一つの方向の中で展開しているように見えてきます。この思考様式への変更が次元観察子ψ5とψ6の球空間において「面点変換」を行うということの実質的な意味だと考えて下さい。この「面点変換」の結果として、ψ5とψ6の球空間は身体を中心とした双方向の一本の線分として認識されてくるようになります。いわゆる「絶対的前」と「絶対的後」。これが4次元の正と負の方向の実体なのです。この線分が知覚正面に対する回転軸となったものが物理数学でいうスピノールとなります。

 次元観察子ψ7~ψ8の球空間は結果的にψ1~ψ2の球空間に重畳してくることになりますが、ψ1~ψ2がモノを規定する空間だったことを考えれば、この重畳がモノが陽子と中性子から構成されているように見えている理由になります。もちろん、このψ7~ψ8の生成段階では単に陽子と中性子だけですから、モノのもとになっている様々な元素を生み出すまでには至っていません。電子も足りませんしね。しかし、いずれにせよ、物質と意識が結節する創造空間の扉はこの次元観察子ψ7~ψ8の顕在化で開いたことになります。

 喩えて言えば、物質とは3次元空間を張り布とするヌースの刺繍のようなものです。刺繍の針が張り布の内面と外面を幾度となく反復して様々な美しい刺繍模様を描いていくように、物質もヌースの針が3次元空間の内面と外面を何度も往復しながら、そこに結び目や綴じ目を重ね合わせていくことによって作り出されてきたものと考えてみましょう。次元観察子ψ1~ψ2とψ7~ψ8の重なりが見え出したということは、ヌースがこの反復運動の元となるもっとも基本となるルートを発見したことと同意です。本当のエルサレム(天上都市)の風景がまもなく見えてくることでしょう。位置の変換後はそこが地球人類の居住空間になっていくはずです。「そこ」に入ったもののことをヌーソロジーでは「ヒト」と呼びます。シリウスです。

 海よ、汝が紅き苦悩を紺碧の希望へとかえ、
 その眠りの水を天の水と地の水の二つに分け給へ。
 さすれば、轟々と響く水音とともに、
 失われし伝説の宝塔が、
 天を引き裂かんと海底より聳え建ち上がることだろう。
 
 ――存在世界は自分自身を前と後に分離させた。前を世界の内在性と呼ぶのであれば、後は世界の外在性となる。しかし、これらは存在世界にとっては二つの場所性を示すものにすぎず、単なる場所性だけではそれらを「観る」という意識の行為は生まれない。そこに自らの存在の自覚はないのだ。存在世界が意識たるためには、観るもの(ノエシス)と観られるもの(ノエマ)という「男なるもの」と「女なるもの」における性的な力が必要となる。ここに象徴界と想像界の発露がある。外部=女はもう一つの内部=男によって〈外部-化〉され、内部=男はもう一つの外部=女によって〈内部-化〉される。互いの尻尾を噛み合う二匹の龍。こうして二つの対照的な性格を持つ人間の意識の類型である水星的なものと金星的なもの、すなわち言語と表象の生産機構が見えてくることになる。ヌーソロジーでは前者を「人間の内面の意識」、後者を「人間の外面の意識」と呼ぶ。次元観察子ψ9とψ10の世界である。――つづく