時間と別れるための50の方法(50)

●「陽子とは愛」が意味すること
 スピノールの回転のヌーソロジー的解釈を一通り終えたところで、OCOTがなぜ「陽子とは愛」と言ったのかを考えてみましょう。
 陽子は、皆さんもご存知の通り、物質の核をなす粒子です。この陽子は現代物理学では二つのアップクォーク(u)と一つのダウンクォーク(d)で構成された複合粒子として存在しています。

 陽子  uud(アップクォーク2個とダウンクォーク1個の意)
 uクォークとdクォークはスピン±1/2を持つ粒子でその自転角運動量は電子と同じでスピノールになっています。ここで、今までお話してきた次元観察子ψ5をアップクォーク、同じく次元観察子ψ6をダウンクォークのスピンとして解釈してみます。すると陽子に含まれている二つ目のアップクォークが持つスピンは、この次元観察子ψ5とψ6を等化する回転が持ったスピンとして解釈することができます。この回転が意味するところは、自他を統合するところに無数の自他関係の対化を構成する自由度を設けているということでもあります。結果的にスピノールの回転の次元そのものは、主-客関係が形作られていた空間より、より大きな対称性を持った次元観察子ψ7を作り出してくることになります。物理学ではこのようなスピノール自体の回転によって生まれるスピンをアイソスピンと呼んでいて、ψ5やψ6のスピンとは区別して考えるようです(下図1参照)。
 
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 アイソスピンはスピノール空間における球空間の回転軸のようなものに当たると考えば分かり易いかもしれません。その意味で、このアイソスピンの内部自由度もSU(2)=S^3になります。この自由度が形作られている空間がψ7の球空間で、シリウスではこれを「球精神」と呼んでいます。球精神……どこかで聞いたことがある言葉ですね。いやいや、あれは「精神球」だったような。精神球とは現在の人間が巨大な空間の広がりとして認識している場所のことです。それが反転したもの。。。これが球精神です。あ〜、もう面倒臭いったらありゃしない。。果たして球精神って何でしょ?

 実はOCOT情報は球精神は人間の意識では客観的な点概念として働いている力のことだと伝えてきています。目の前の空間の中に、「ここに客観的な点を打ちます」と言って、多くの人がそれを了解したときには、その点自身が陽子になっているということです。もちろん、前にも言ったように、点概念とはそのまま「点球」のことを意味しますから、これはモノとしての客観的球体概念と言い換えても同じです。人間は点や球の概念の背景にこうした球精神の力が働いているということも露知らずに、そのまま、無意識に球精神の力を借りて、モノの境界面の描像を宇宙空間の果てにまで拡大して、空間の広がりを概念化している………それが精神球だということです。この球精神と精神球の反転関係は次元観察子ψ9の領域に入るとはっきりと見えてきます。

 さて、クォークのuスピンが観測者の絶対的前を意味し、それが主体の精神の在処だとすれば、この陽子のアイソスピンとは人間全員の「前」を綜合した空間であり、そこはまた人間の意識における持続の全体性が息づいている場でもあるということになります。このことは言い換えれば、主体が人間全体の観察の視線が焦点化されていると考えているところには陽子が生じるということでもあり、モノが陽子でできているのも、このような主客認識の一致点が空間構造として物質生成の根底にセットされているからです。観念論と実在論の見事な調和がここにはあります。これまで哲学を呪い続けてきた「もの自体」という亡霊を払拭することができてくるわけです。

 コ : では、愛の達成が人類の最終的な目的ではないのですね。
 オ : はい、さきほども申し上げたように、あなたのおっしゃっている愛とは、人間に進化の方向を与えているものであって 目的ではありません。むしろ、スタートです。
 コ : 愛がスタート………。
 (『シリウス革命p.98』)

 人類の過去の歴史の中で何度も声だかに叫ばれながらも空しいリフレインとなり続けてきた「愛」。OCOT情報によれば、その愛が2013年から結実を開始すると言います。正直、「ほんまかいな」というのが大方の人たちの反応でしょう。現実の世の中を見てもそのような気配は一向に感じ取ることはできませんし、むしろ、社会のいたるところでルサンチマンが増殖してきており、世界全体が受動的ニヒリズムへとまっしぐらに堕ちて行っているようにも見えます。一体OCOTは人間の何を見てこのような予言めいたことを言っているのでしょうか。このことについては僕自身、いろいろな可能性を探りました。結果的に下した決断は、OCOT予言の真意の理解のためには、人間が長年抱き続けてきた愛のイメージをその根底から変える必要があるということです。

 普通、「愛」というと、男女の性愛や、隣人愛、人類愛など、他者に対する慈しみの感情を指します。こうした感情は今までは人間の精神面や心の問題とされ、認識の問題とは区別して語られるのが常でした。しかし、認識を無視したこのような愛の在り方は虚妄だとも言えます。なぜなら、人が他者への愛を諭すとき、大方の場合、他者は自分の外部に想定された別の主体的存在となっているからです。「他者」をはじめから〈外部〉において、そこで「他者」との融合を切々と訴えたとしても、実際には「他者」を遠ざけていることにしかならず、せいぜい、折り合いをつけてうまくやっていく程度のことしかできません。こうした疎遠さの中で、どんなに「わたしはあなたを愛しています」と叫んでみたところで、そこでは「他者」は永遠に自己の〈外部〉に放擲されたものでしかなく、根本的に断絶を持った「他者」でしかありえないのです。

 ですから、自他一体という愛のかたちを形成するためには、人間におけるこうした旧態依然とした〈自己-他者〉図式を払拭し、他者を絶対的外部に置かないような世界像を作り出す必要があります。たとえば、前回示した図のように、多くの人間が一つのモノを取り巻いて観察している様子を想像してみましょう。そのとき僕らは見ている主体が「多」で、見られている客体が「一」だと考えています。この認識は僕らにとって極めて自然なものであり、別に無理してそのように見ているわけではありませんね。モノには無数のアスベクトがあるにもかかわらず、そのアスベクトの「一」への統合がなぜかモノ側ではいたって自然に起こっている。それならば、いっそのこと、主体が今見えているモノの像側にいるとする考え方と感覚を作り出せば、主体の交換がいとも簡単に成立し、愛が一気に現実化することになるわけです。

 このためには、いつも言っているように、モノの手前側に想定されている鏡像を消してしまわなければなりません。もちろん、この作業は鏡像的自我自体が時空という概念で統制された世界体系(人間の内面の意識)によって幾重にもガードされているので、そんなに容易なことではありません。しかし、もし、そのガートを突き崩せるだけの別の認識の体系が作り出されてくれば、愛はごく自然な身振りで天から舞い降りてきて、人間を次なるステップへと進ませることができるのではないかと考えています。愛とは陽子である——これほど痛快な落ちを用意している神さま。あなたはつくづくセンスがいいお方だ!!——つづく