●男になるか、女になるか
街を歩き回る。部屋の中をうろつき回る。野原を駆け回る。「わたし」は毎日の生活の中で何とも忙しなくあちこち動き回っています。しかし、本当のところ、それは他人の目から「わたし」を見た場合に言える言い方であって、素直に「わたし」自身の位置から世界から眺めてみれば、動き回っているのは「わたし」ではなく、モノや世界の方だということが分ります。このように主観的な空間では、「外在」と呼ばれる世界はあたかも映画のスクリーンに映し出された像のようなものとなり、「わたし=内在」と呼んでいるものの方はそのスクリーンの方に対応してくるわけです。アドバンスト・エディションにも書きましたが、こうした微動だにしていないスクリーンとしての「不動のわたし」を明確に感覚化したいならば、一本の鉛筆を用意するといいでしょう。4次元を見るための立方体鉛筆ならぬ眉間鉛筆。鉛筆を視線の方向に沿って眉間に立て、そのまま部屋の中を直進したり、蛇行したり、回転したりと、いろいろと動き回ってみるのです(下図1参照)。
そのとき、視野空間には鉛筆と室内の風景が映し出されます。鉛筆の背景となっている室内風景は次々とその見えを変化させていきますが、鉛筆の方は眉間に固定されているので、周囲の風景の動きに対して常に不動を保つことになります。鉛筆が動いていないのであれば、眉間も動いてはおらず、眉間が動いていないのであれば、当然、身体も動いていはいない。つまり、「動いているのは世界の方であってわたしではない」という相対的な不動感覚が、この一本の鉛筆の見えによって認識に強調されてくるわけです。結果的に言えば、このときの鉛筆が次元観察子ψ5に相当してくることになります。ψ5は次元観察子のψ3~ψ4(モノから広がる空間)、ψ3はψ1~ψ2(モノの内部の空間)をその部分として含んでいますから、結局、ψ5はψ1~ψ4までの全観察子を統合している観察子ということになります。これは平たくいえば、主観的な身体感覚における「前」そのものに対応しています。「アドバンスト・エディション」にも書いたように、人間、モノのどの部分を見ようと、何を見ようと、どこを向こうと、どこへ赴こうと、「前」であることには変わりはないということです。
客観的空間の中においてはそれこそ身体における「前」方向は、3次元空間の任意の一つの方向と何ら変わるものではありませんが、主観的空間の中においては客観的空間に想定されたあらゆる座標からの広がりをすべて一本の線の中に束ねることのできる能力を持った方向でもあるのです。そして、言うまでもなく、この一本の線分は奥行きが無限小の長さに潰された線分になっていますから、あのベルクソンのいう「持続」をすべて含み持った場所と考えなければなりません。ヌースが次元観察子ψ5を自己を作るための容器と考えるのはそのような理由からです。「後」だって手で触れば現実として知覚できるじゃないか、という人もいるでしょうが、それは観察子でいうとψ1~2の領域(触覚空間)に当たります。ですから「後」ではないとも言えます。視覚的意味での「後」には以前もいったように、対象の背景空間も知覚されなくてはならず、そういう知覚は他者の領域であって決して「わたし」には存在してはいません。
では、ψ5の反映である、このψ6=「後」方向とは何なのでしょう。次元観察子ψ3~ψ4の解説のところでも説明したように、主観が「後」方向を意識するということは、対峙している他者の前方向を主観が想像的に意識に取り込むことと同じ意味を持っているのが分ります。つまり、鏡像空間を覗き込んでいるということですね。その意味で、主観が「わたし」の顔面を意識する際には、その意識の矢は必ずわたしの背面方向に向いており、さらにそこから顔面自体のx、y、z軸での回転を想像してしまうと、背面側にも見えない想像的な3次元空間が広がりを持ってくることになります。ここで、皆さんの空間感覚を確認してみて下さい。背中の後に広大な空間が広がっているという感覚があるのではないでしょうか。それです。そして、そこで自分の身体の回転を想像してみて下さい。そうすると、今度は前側にもその想像的な広がりの感覚が出てきてしまいます。どうも僕らはそうした「後」の集合を時空と呼んでいるのではないかということです。宇宙空間や星々の世界を遠い遠い場所としてイメージしている意識もこうした「後ろ向き」の意識が「前」に重なり合うことによって作り出されているのではないかと思います。こうして「前」が作る「ほんとうのわたし(真の主体)」という場所と、「後」が作る「わたし」を包み込んだ広大な空間という場所とが、人間の意識を働かせていくための最も基本的な「人間の条件」として意識に設定されてくるというわけです。
ユダヤ教のミドラーシュには光を意味する「OR」が皮膚の意味に変わったとき、宇宙に原初的なジェンダーの分化が起り、女性という存在が生まれてきたと説いています。知覚球体がもし光速度の皮膜で覆われているとすれば、まさに「前」という膜で閉じられた次元観察子ψ5という球空間は光の皮膚と呼んでもいいものになります。そして、この皮膚において、触ること(ψ1)や見ること(ψ3)、聴くこと(ψ5?)という僕らが知覚と呼んでいる出来事が起こっている。。。もちろん、ここでいう知覚とはベルクソンのいうイマージュを含んだ知覚のことです。とすれば、知覚とは、外部の対象を捉える能力というよりは、むしろ身体の内部空間を形成していくための機能と言い換えた方がよいのかもしれません。当然、そのときの外部とは次元観察子ψ6に相当する空間であって、この空間は知覚不可能な場所なわけですから、ただ人間が持った想像力の中で3次元という概念だけが彷徨っているような闇の世界となります。ψ5を先手に取って世界を見るか、ψ6を先手に取って世界を見るか――ミドラーシュが説く通り、「位置の等化」と「位置の中和」というヌース的な意味でのジェンダーの最初の分裂もここで起こります。5を取るか、6を取るか、女なるものに変身するか、男なるもののままでいるか、それがこれからの21世紀的な問題なのです。
つづく
9月 12 2008
時間と別れるための50の方法(35)
●男になるか、女になるか
街を歩き回る。部屋の中をうろつき回る。野原を駆け回る。「わたし」は毎日の生活の中で何とも忙しなくあちこち動き回っています。しかし、本当のところ、それは他人の目から「わたし」を見た場合に言える言い方であって、素直に「わたし」自身の位置から世界から眺めてみれば、動き回っているのは「わたし」ではなく、モノや世界の方だということが分ります。このように主観的な空間では、「外在」と呼ばれる世界はあたかも映画のスクリーンに映し出された像のようなものとなり、「わたし=内在」と呼んでいるものの方はそのスクリーンの方に対応してくるわけです。アドバンスト・エディションにも書きましたが、こうした微動だにしていないスクリーンとしての「不動のわたし」を明確に感覚化したいならば、一本の鉛筆を用意するといいでしょう。4次元を見るための立方体鉛筆ならぬ眉間鉛筆。鉛筆を視線の方向に沿って眉間に立て、そのまま部屋の中を直進したり、蛇行したり、回転したりと、いろいろと動き回ってみるのです(下図1参照)。
そのとき、視野空間には鉛筆と室内の風景が映し出されます。鉛筆の背景となっている室内風景は次々とその見えを変化させていきますが、鉛筆の方は眉間に固定されているので、周囲の風景の動きに対して常に不動を保つことになります。鉛筆が動いていないのであれば、眉間も動いてはおらず、眉間が動いていないのであれば、当然、身体も動いていはいない。つまり、「動いているのは世界の方であってわたしではない」という相対的な不動感覚が、この一本の鉛筆の見えによって認識に強調されてくるわけです。結果的に言えば、このときの鉛筆が次元観察子ψ5に相当してくることになります。ψ5は次元観察子のψ3~ψ4(モノから広がる空間)、ψ3はψ1~ψ2(モノの内部の空間)をその部分として含んでいますから、結局、ψ5はψ1~ψ4までの全観察子を統合している観察子ということになります。これは平たくいえば、主観的な身体感覚における「前」そのものに対応しています。「アドバンスト・エディション」にも書いたように、人間、モノのどの部分を見ようと、何を見ようと、どこを向こうと、どこへ赴こうと、「前」であることには変わりはないということです。
客観的空間の中においてはそれこそ身体における「前」方向は、3次元空間の任意の一つの方向と何ら変わるものではありませんが、主観的空間の中においては客観的空間に想定されたあらゆる座標からの広がりをすべて一本の線の中に束ねることのできる能力を持った方向でもあるのです。そして、言うまでもなく、この一本の線分は奥行きが無限小の長さに潰された線分になっていますから、あのベルクソンのいう「持続」をすべて含み持った場所と考えなければなりません。ヌースが次元観察子ψ5を自己を作るための容器と考えるのはそのような理由からです。「後」だって手で触れば現実として知覚できるじゃないか、という人もいるでしょうが、それは観察子でいうとψ1~2の領域(触覚空間)に当たります。ですから「後」ではないとも言えます。視覚的意味での「後」には以前もいったように、対象の背景空間も知覚されなくてはならず、そういう知覚は他者の領域であって決して「わたし」には存在してはいません。
では、ψ5の反映である、このψ6=「後」方向とは何なのでしょう。次元観察子ψ3~ψ4の解説のところでも説明したように、主観が「後」方向を意識するということは、対峙している他者の前方向を主観が想像的に意識に取り込むことと同じ意味を持っているのが分ります。つまり、鏡像空間を覗き込んでいるということですね。その意味で、主観が「わたし」の顔面を意識する際には、その意識の矢は必ずわたしの背面方向に向いており、さらにそこから顔面自体のx、y、z軸での回転を想像してしまうと、背面側にも見えない想像的な3次元空間が広がりを持ってくることになります。ここで、皆さんの空間感覚を確認してみて下さい。背中の後に広大な空間が広がっているという感覚があるのではないでしょうか。それです。そして、そこで自分の身体の回転を想像してみて下さい。そうすると、今度は前側にもその想像的な広がりの感覚が出てきてしまいます。どうも僕らはそうした「後」の集合を時空と呼んでいるのではないかということです。宇宙空間や星々の世界を遠い遠い場所としてイメージしている意識もこうした「後ろ向き」の意識が「前」に重なり合うことによって作り出されているのではないかと思います。こうして「前」が作る「ほんとうのわたし(真の主体)」という場所と、「後」が作る「わたし」を包み込んだ広大な空間という場所とが、人間の意識を働かせていくための最も基本的な「人間の条件」として意識に設定されてくるというわけです。
ユダヤ教のミドラーシュには光を意味する「OR」が皮膚の意味に変わったとき、宇宙に原初的なジェンダーの分化が起り、女性という存在が生まれてきたと説いています。知覚球体がもし光速度の皮膜で覆われているとすれば、まさに「前」という膜で閉じられた次元観察子ψ5という球空間は光の皮膚と呼んでもいいものになります。そして、この皮膚において、触ること(ψ1)や見ること(ψ3)、聴くこと(ψ5?)という僕らが知覚と呼んでいる出来事が起こっている。。。もちろん、ここでいう知覚とはベルクソンのいうイマージュを含んだ知覚のことです。とすれば、知覚とは、外部の対象を捉える能力というよりは、むしろ身体の内部空間を形成していくための機能と言い換えた方がよいのかもしれません。当然、そのときの外部とは次元観察子ψ6に相当する空間であって、この空間は知覚不可能な場所なわけですから、ただ人間が持った想像力の中で3次元という概念だけが彷徨っているような闇の世界となります。ψ5を先手に取って世界を見るか、ψ6を先手に取って世界を見るか――ミドラーシュが説く通り、「位置の等化」と「位置の中和」というヌース的な意味でのジェンダーの最初の分裂もここで起こります。5を取るか、6を取るか、女なるものに変身するか、男なるもののままでいるか、それがこれからの21世紀的な問題なのです。
つづく
By kohsen • 時間と別れるための50の方法 • 0 • Tags: イマージュ, ベルクソン, ユダヤ, 人類が神を見る日, 位置の等化