8月 25 2008
『ファウンテン 永遠につづく愛』
『π』や『レクイエム・フォー・ドリームス』で一部に熱狂的なファンを持つ奇才ダレン・アロノフスキー。彼の新作『ファウンテン』を昨日、近所のTSUTAYAでゲット。さっそく鑑賞させてもらった。
映画の冒頭、いきなりエデンの園に存在していたと言われる知識の樹と生命の樹の話が引用される。期待を膨らませつつ見入ったが、前半、物語構成が凝りすぎてちょっと……とは思ったが、エンディング・ロールのところでは目頭が熱くなっている自分に気づいた。納得。納得。ありがとうダレン。こんな映画を作ってくれて。一般受けはまずしないだろうが、素晴らしい作品だった。このブログを読んでくれている人なら、見て損はナシ。特に後半に畳み掛けてくる意識の覚醒?のシーンの連続は息を呑むほどの美しさなので、ビジュアル面だけでも十分に楽しめると思う。
さて、物語の内容だが、サブタイトルに「永遠につづく愛」と書いてあるように、輪廻転生しても永遠に愛し合う男女のお話、と言いたいところだけど、これは間違っても男女間の性愛の物語ではないので、そのへんを期待して観ると完全に肩すかしを食らうので注意すること。これは愛の物語というよりも、かの『ヘドウィッグ アンド アングリーインチ』と同じく、”愛の起源”についての物語だと言っていい。”グノーシス的人生”のセンスがないと理解は難しい。
かつてアダムとイブはエデンと呼ばれる楽園にいた。しかし、イブが悪魔にそそのかされ禁断の果実を食べてしまう。このままでは生命の樹の果実まで食べられてしまうと思った神は、アダムとイブを楽園から追放してしまう。禁断の木の実とは知識の樹になっていた果実、すなわち理性のことだ。それによってアダムとイブは互いの性を男と女として意識し合うようになり、楽園での一体性を失ってしまう。愛の起源はこの伝説の中では生命の樹として象徴されている。
映画のストーリー自体は現在を軸として、過去と未来の三つの時系列が複雑に絡み合う構成からなっている。愛し合う夫婦であるトミー(ヒュー・ジャックマン)とイジー(レイチェル・ワイズ)。イジーは脳腫瘍に冒され、余命は幾ばくもない。それを必至に救おうとする医者であるトミー。二人は永遠の愛を誓い合うが、お互いその永遠観がまるで違うためにいつもすれ違いばかりしている。イジーは死んでも魂は残ると信じ、二人の今を大切に生きようと考えている。一方、トミーの方は何とかイジーを死なせまいと新薬の開発に没頭し、残り少ない命のイジーをかまってやる時間がない。こうした二人の永遠観の違いの象徴となっているのが冒頭に登場した『生命の樹』だ。トミーはグアテマラに生息していると言われる実際の植物としての「生命の樹」からイジーの脳腫瘍を治癒させるための薬を抽出しようと実験に懸命だ。イジーの方は古代マヤのシバルバ(黄泉の国)伝説をもとに「ファウンテン(生命の泉)」という小説を書き上げようとしている。この小説の章立ては全部で12章。しかし、最後の一章がまだ書けていない。それを自分の死んだ後にトミーに完成させてほしいと願っているのだ。
そして、イジーが書いたこの「ファウンテン」という小説の中の物語が、この映画の過去の時系列に当たる部分になっている。舞台は16世紀のスペイン。ダレンが輪廻転生を意図したのかどうかは分らないが、ここで、イジーとトミーはスペイン女王のイザベラとその忠実な家臣である騎士トーマスとなって現れる。イザベラはトーマスに国家存続のために中米マヤに存在すると言われる「生命の樹」を持ち帰ってきて欲しいと依頼する。イザベラとスペインを愛する騎士トーマスは使命を全うするため、幾多の犠牲を払いながらも、最後にその伝説の樹の場所へと到達するのだが。。。。
さて、残りの未来の時系列のシークエンスの方だが、こちらはかなりぶっとんでいる。設定では数百年後の未来。場所は宇宙空間だ。そこでトミーは宇宙飛行士のトムに姿を変えている。トムが搭乗している宇宙船が向かっているのはオリオン座三ツ星のすぐ下にある恒星シバルバだ。例のイジーが書いた小説のヒントとなった星である。トムがトミーの生まれ変わった姿なのかどうかは定かではない。しかし、やはり、この宇宙船の中にもイジーの「(小説を)完成させて……」という言葉が響いている。水晶玉の中に日々枯れ果てていく樹木を宿したような意匠のかなりシュールな宇宙船。この宇宙船がシバルバを目指しているのであれば、見方によっては、トミーの死後の魂の姿と見て取れないこともない。。
ネタバレになるのでこれ以上の詳細は書かないが、個人的にはダレンに★★★★★を上げたい。よくぞ、生命の樹をテーマにした作品を作り上げたものだ!!拍手喝采である。構成が複雑になりすぎてうまくまとまっていない面もあるが、そんなことはさておいて、やはり後半の映像の畳み掛けは『レクイエム・フォー・ドリームス』で見せたダレン・ビートの面目躍如だ。素晴らしい。クロノス・カルテットの音楽も例によってよくマッチしていたし、そして、何よりもブラボーなのは、ダレンが「生命の樹」の何たるかのビジョンをしかと持っているように思えることだ——ベッドで眠っているときのイジーの可憐なうなじ。雪の塊を投げつけるときのイジーの無邪気な笑顔。シバルバについて語るときのイジーの瞳の輝き。永遠の生命とはそうした日常のありきたりの風景の中にこそ顔を覗かせる。そのアウラを感じ取る感性。これはひょっとしてダレンのレイチェル・ワイズに捧げるブライベート・ムービーかも(笑)。
蛇足ながら、この映画を見てみようと思った人はどうか次のようなことをイメージしながらDVDのスタートボタンを押して欲しい。そうすれば、ダレンがこの作品で伝えたかったことがはっきりと分るはず。。
——君の大切な人が突然、明日、交通事故で死んでしまうとしよう。君は涙に明け暮れ、彼女(彼)と過ごした日々を何度も思い出しては、どうしてあのときあんな顔をしてしまったのか、あそこでどうして優しい言葉の一つも掛けてやれなかったのかと悔やみ続けることだろう。そんな悔悛を機械的に繰り返す前に、今日、今現在の彼女(彼)がすでに死者なのだと思ってみてはどうだろう。いや、彼女(彼)だけではなく、自分もすでに死後の世界にいる魂だと考えてみたらどうか。つまり、未来の視点から現在を見てみるのだ。そうすれば現在はすべて回想の世界として存在していることが分かり、君は悔悛を悪戯に繰り返すこともなく、すべてに優しくなれるのだ。そのような「現在」をこの現在に再生させること。そこから溢れ出てくる他者への想いこそが生命の樹の樹液だと言っていい。この映画はそれを見事に描いてくれている。
とーらす
2008年8月31日 @ 02:00
■このDVDはぜひ見てみようと思います。3つの時間の系と、そこでのそれぞれの過去未来現在の時間の捉え方と流れがあり、その9つの時間の系(過去の過去、過去の現在、過去の未来、現在の過去、現在の現在、現在の未来、未来の過去、未来の現在、未来の未来…ああ、しんど)の相互が互いに関与関連しているようなことが『エノクの鍵』に書いてあったことを思い出しました。
この9つの内の現在の現在に全てが映りこんでいるというか、だからこそ逆にそれが見えてこないというか、この3つの括りの捉え方が、面-点-線の3つの次元が1-2-3から3-5、5-6-7…という具合に面点変換の反転スライドで9つの時間の系とも対応するというのも、1つの見方としてアリかと捉えております。
また太陽系の惑星における水星-金星-地球の括りが内外反転して地球-火星-木星になり、さらに木星-土星-天王星へと連結しているという捉え方にも続きます。天王星そのものの公転が、月の29.5日を1キンとした260キンで4つ、4直角で1040キン(フナブ・クにも似ている)で84年に対応していたりしますよね。もはやその先の天王星-海王星-冥王星は気が遠くなってわからないけれど。
kohsen
2008年9月1日 @ 11:26
トーラスさん、すっかりご無沙汰しております。
トーラス版大陽系トポロジーの研究は進んでおられるでしょうか。
また、よかったら博多に遊びに来て下さい。
ゆっくりとトーラスレクチャーでも受けれたらと思っております。
かろかろ
2008年9月5日 @ 18:28
ワイルダーの「わが町」(1938年)というお芝居がありますね。御存知とは思いますが、前世紀初頭のアメリカの片田舎の淡々たる日常(といっても劇中の経過時間は数十年)を描いた傑作です。
主役は、その田舎町で育った幼なじみの二人(ジョージとエミリー)。皆から祝福され幸福な結婚をした二人だけれど、エミリーはほどなくして難産で死に、町はずれの共同墓地に埋葬される。そこで出会った死者達から制止されるのも聞かず、「もう一度だけ」と神様(だったかしらん?記憶曖昧です)に頼んで、現世に戻してもらう。
戻った世界は、少女時代のありふれた一日。しかし、そのありふれた朝のあらゆる細部(朝の挨拶、コーヒーの香り、温かい朝食、洗い立てのテーブルクロスや、ドレスに残るアイロンの匂い、娘とかくれんぼのまねごとをする父親のおどけた声、、)の輝かしさに圧倒され、こみあげる切ない愛おしさに耐えきれなくなり、「もう止めて」と叫んで墓地に戻してもらう、、、、、。嘆きつつ彼女は訊ねる。「この地上の世界はあまりにも素晴らしすぎる。生きているうちに、これを理解できる人なんているのかしら?」。神様(?)は応える、「無理だ。詩人ならひょっとして、、、」と。
コウセンさんが言われる、生命の樹液をもたらす「現在」とは、エミリーが見た(そしてエミリーを通して観客が見る)景色そのもののように思います。
それにしても、「永遠」というのは難しい言葉ですね。実際のところ、文字通りの永遠を体現している鉱物(石ころ)なんぞに、我々は決して永遠を見たりしません。むしろ滅びることを運命づけられているものにこそ、我々は永遠を見る。
逆説的ですが、永遠とは、死すべき運命にある者、あるいは死すべき運命をひしひしと自覚しているものにしか見えないもののように思います。例えば、死に対して高をくくった態度をとる人間は、一見「永遠」の視点をもっているようで、それからもっとも遠いところにいるように思えてくる。また、死を単なる熱力学的終焉としか捉えられない科学の視点は、一見「永遠」に立脚しているようで、その逆(永遠の否定)に立脚しているような感じがします。
これって、生と死というものの意味(あるいは構造)の根っこに繋がる「要」の部分なんじゃないかなあ。
コウセンさんの言われるような「現在」をもたらす視線というのは、言われてみれば誰にも思い当たるものでありながら、慣れ親しんでしまうと、「偽の永遠(ひりひりするような死の意識の裏打の欠如した永遠の概念)」にすり替わってしまうような、そんな危うい均衡の上に稀に顕現するよう運命づけられているような、そんな気がしつつ読みました。機会があったら観てみますね。貴重な情報ありがとうございます。妄言多謝。
ミスランディア
2009年8月31日 @ 12:27
こんにちは半田さん!ファウンテン観ましたよ!確かにあの映画はグノーシスの知識がないと理解出来ませんね〜。ただ、私は普通の人ならあまり気にならないであろう、変なところで引っ掛かっちゃって…。割と初めの方のシーンなんですが、異端審問が出て来ますよね。あれは監督が、イジーが語っている死は開放であるという意味は、いわゆるキリスト教などで言われているものとは対極にある観念であることを表したシーンだと思います。しかし、過去世(私の魂に関わりのある異次元の意識という意味の過去世)で異端審問に関わり、今世でもその半生をクリスチャンとして生きた身としては、あのシーンを観ることは自分が断罪されている気がして痛いどころではございません。そのせいが、昔から映画等を観る際には次のことが条件だったりします。1.残酷なシーンが無いこと。2.哲学的な内容であること。これに最近はTVブロスでの評価が高いことと、半田さんがオススメしていること、が加わりました(笑)。ロストハイウェイも観ましたよ!怖いシーンが出やしないかとビクビクしながら…。2001年も観ましたし、ついでに2010年(わっ!来年じゃん!)も観まして理解したことは、なんであんなにハルが人気あるのかということでした。健気な奴だったんですね〜!話は戻りますが、ファウンテンを観て、愛の根源に感動するつもりが、自分の原罪意識の根源に触れて、ちょっと動揺してしまった私でした。
kohsen
2009年9月1日 @ 17:25
ミスランディアさん、こんにちは。
僕の映画の趣味はかなり偏っています。
分裂症がかったのが好きなんですよね。
エログロなやつも結構混じってますし、
変態的なのも大好きです。
もともと、僕が映画好きになったのは、
中学生のときに観た『時計仕掛けのオレンジ』(S・キューブリック監督)で、
それにさらに拍車をかけたのが、大学生のときに観た
『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督)でした。
基本的にウルトラパイオレンスが好きなのかも。。です。(笑)