4月 28 2008
時間と別れるための50の方法(7)
ようやくMacも復旧。まずは仕事の遅れを取り戻していました。
今日からまたボチボチ、ブログの方も更新していきたいと思います。
現在、このブログでは2月に出した『人神』のアドバンスト・エディションの補足をする内容を思いつくまま書いている。その中でもとり分け「人間の内面」と「人間の外面」というヌース用語の基本中の基本とも言える言葉についてより理解を深めてもらうために、身体における前-後という概念について少し掘り下げている。というのも、アドバンスト・エディションにも書いたように、「人間の外面と内面」というヌース特有の概念がそれぞれ身体における「前の空間」と「後ろの空間」に対応していることがようやく分かってきたからだ。
僕らの意識は普段、3次元空間の中に落ち込んだ位置から空間について思考しているので、「前」と「後ろ」という方向性のトンデモない差異にほとんど気づいていない。おそらく、ヌース理論が今まで次元観察子と呼んできた無意識が形作っている高次の次元構造は、つまるところ、身体における前・後、左-右、上-下という三つの方向性が持つ本質的意味と重ねられて語られていくことになるだろう。自他におけるこれらの三つの方向性の絡み合いが作り出す意識の働きのすべてが見えてくることになれば、それはヌースで言う次元観察子ψ1〜ψ12までのすべてが顕在化したということにおそらく等しい。ということで、とりあえずは『時間と分かれる50の方法………6』で紹介した「後ろ」についての話に戻って、「前」と「後ろ」の、そのトンデモない差異を露わにしていくことにしよう。
「後ろ」は見えません。「後ろ」には「わたしの身体の後ろ」と「正面に見えている対象の後ろ」という二通りの後ろがありますが、どちらも見えません。この二種類の後ろに共通しているのは、いずれも向かい合う他者側から見た場合、その他者の「前」の範疇の中に収めることができるということです。この見えない「後ろ」を見たいとき僕らが使う道具が鏡です。その意味で鏡というのは他者の「前」の代用品という言い方ができるわけです。ですから、鏡は自分の前方の中に自らの後方を出現させることができます。ということは、鏡というものはその本来が「バックミラー」と呼ばれてしかるべきものであるということです。
そこで、皆さんも、朝起きて洗面所の鏡の前に立ったときの自分の姿を思い出してみましょう。普段は寝ぼけ眼で見ているから気づきにくいのですが、やっぱり、鏡に写っているのは「後ろ」の世界です。ということは、次のような非常識的な推測が成り立ってきます。つまり——僕は自分の顔が前に付いているとばっかり思っていたのだけど、鏡に映し出されている世界は僕の「後ろ」なんだから、顔は「前」に付いているというより「後ろ」についていると考えなくちゃいけないのではないのか——ちょっと奇妙に聞こえるかもしれませんが、これは、前を見るにしても、後ろを見るにしても、実は視点というか、視線の方向がそれぞれ二つづつあるということを言っています。普通、僕らは文字通り自分の前方向を「前」と呼んでいますが、自分の顔がある場所も「前」のように感じています。というのも、顔と反対側の頭部は「後頭部」と呼ばれ、「後ろ」とされているからです。でも、これってちょっと変です。なぜなら、「前」とは見える世界が存在している場所の方向を差している言葉のはずなのに、自分の顔は見えない世界側に属しているからです。自分の顔が「前」にあると認識している意識は、普通に「前」を「前」と認識している意識とその方向性が完全にひっくり返っているにもかかわらず、人間はその方向性の違いに無頓着で、それらを一緒くたにして混同してしまっているんですね。極端な話、ほんとうは僕らが後頭部と呼んでいるものの方を実は「前」と呼ぶべきであり、顔面は僕の背後世界の方向に存在している対象と考えるべきなんです。
僕には見えない後ろ側の風景をいつも引き連れているであろう己の顔。この顔は自分自身では実物を決して見ることができず、鏡像を通した想像力でしか捉える術がないのだから、とてもリアルな顔面とは言えません。自分にとっては自分の顔面はあくまでも「仮面」なのです。そう、ペルソナ(persona)です。このペルソナが人間性を養い、パーソナリティー(personality=人格)というものを作り上げて行く土台となります。こで人格と言ってるのは、いわば現象(世界がこうしてあること)に浮上してくるすべての意味の統括者としての自我存在のことを意味しています。
ですから、僕は半田広宣という仮面を被っており、ここでの語りもまたすべてその仮面による語りです。おそらく、この語りを聞いている皆さんも、すべて仮面-者としての皆さんでしょう。そこで僕はほんとうの顔って何だろうと考えるわけです。仮面じゃないほんとうの顔面は昔風に言えば「面(おもて)」です。時代劇とかで「面を上げぇ~い」と言うでしょ。アレです。「面を上げぇ~い」と言われれば、昔の人だって当然、顔面を上げてしまうことでしょうが、顔面は仮面なのだから、面ではありません。シリウスファイルにこんなやり取りがあります。
コ : 人間が見ている世界とは何ですか?
オ : 面です。
シリウスでは「面(めん)」というのは眼に見える世界そのもののことを言うそうな。。あひゃ?ひょっとして、それって「前」のこと?見えてる世界そのものが僕の素顔ってことなのか?
そうです。OCOT情報のいう「面」とは、僕が『人神/アドバンスト・エディション』の中で不動の視野空間と呼んだものそのもののことを意味します。。。。——つづく
夏羽
2008年5月2日 @ 16:53
こんにちは、コエセンさん
お久しぶりです。
「時間と別れるための50の方法」というタイトルが、ずっと気になっていましたが、何せ長文、ネットで読む気にはなれず、ずっと眺めさせていただいておりましたが、今回1から7まで印刷して、じっくり、とても興味深く読ませていただきました。
コウセンさんの目に見えるものは前で見えないものは後ろという仮定、面白いですね。確かに私には今山が見えていますが、山の後ろもやはり私にとって前ということができるかもしれない、何故なら後ろに回れば見えますからね。山の中の仕組みだって見ようと思えば見えないことはない。
しかしながら、自分の顔(鼻は見えるけど・・)や首、後頭部、背中は、この三次元の目を使っては絶対見えないですね。
とはいえ、幽体離脱の経験を持つ友人の話では、自分自身を天井から眺めている、もちろんそのとき仰向けに寝ていれば顔が、うつ伏せならば背中が見えるわけです。
また、夢の中では自分自身の全体が見えます。夢の中で私は私自身であったり、違う人物の私であったりするんですが、どちらの場合も考えている、感じている自分と、自分を見ている(顔や後頭部も含めて)自分が存在しています。
自分の顔は仮面と書かれていましたが、その顔をさわれば感じることができるし、さわらずとも神経の動きの一つ一つ、皮膚の部分部分を自分であると認識することができると思うんです。
ところで自分というものの境界ってどこにあるのでしょうか?私が今鉛筆で書いているこの手は自分のもの?新緑が眩しい窓の外の山と同じように他人のもののようにも感じられる。同じように、窓の外の山や雲、さえずり始めた鳥たち、地中にうごめく虫たちも、私の手と同じように自分であるようにも感じられる。世界に境界がない、縫い目がないように、自分というものにもやはり境界がないのではないだろうか。テレパシーは単に自分自身の一部につながっているということかもしれない。
さて、自分とは一体どこに位置するのでしょう。ヌースでは自分は必ず人間という場所に位置しているように感じていますが。(間違っていたらごめんなさい)
以前コウセンさんとトーラスさんの対談で、トーラスさんが、正二十面体の効果はそこに人間がいるときにだけ現れる、というようなことを言われていましたが、(正確な引用でなくすみません)私の感覚では自分は人間の体の中にのみ存在するものではないように思うんです。自分では見ることができない顔や背中の筋肉の鼓動を感じることができるように、その気になれば目の前にある山や雲、木や虫、鳥たちの鼓動を自分の感触として捕らえることができると思います。
私はたまたま人間であるし、コウセンさんやこのブログの訪問者の方々もそうであるけれど、それは自分という存在にとってそれほど重要なことでしょうか?人間という位置の制約は、実際には存在せず、境界を持たない自分があるのではないだろうか。
ナルシスの引用は面白いですね。三次元の世界は鏡の中、とはよく言われることです。
しかし、果たして鏡と実態の境界とは何なのでしょう?
長々と書いてしまい、申し訳ありません。時間については結局何も書きませんでしたが、またの機会に。
ところで、時間と戦争についてとても興味深いことが、バーバラ・マーシニアックのニューズレター2007年冬至号に書かれていたので、部分的にですが訳しました。
http://www.terre.creatorchild.com/time.htm
コウセンさんがここで書かれていることに関連することもあるような気がします。
kohsen
2008年5月3日 @ 14:59
夏羽さん、こんにちは。
>私の感覚では自分は人間の体の中にのみ存在するものではないように思うんです。自分では見ることができない顔や背中の筋肉の鼓動を感じることができるように、その気になれば目の前にある山や雲、木や虫、鳥たちの鼓動を自分の感触として捕らえることができると思います。
まさに、この感覚ですね。ヌースのいう「位置の等化」というのが、おそらく夏羽さんがここでおっしゃっていることに近いのではないかと思います。通常は知覚の対象としか見られていないすべてのものの側に自分を見出すこと。こうした主客未分離感覚は、それが未分離であるがゆえに、甚だ意識化しにくいもので、突然、全身を包み込んでは、次の瞬間は泡沫のように消え去ってしまいます。
ヌースがやりたいのは主客分離における意識の位置関係と主客未分離のそれとがどのような関係で意識全体の中に配置されているのか、また、そうした意識の在り方が存在全体とどのような関わりを持っているのか、など、その秩序を多少なりとも明らかにして、無意識的身体とも呼べるイデアの存在を指し示したいんですね。
イブはアダムの骨から作られた——このアダムの骨を何とか掘り起こせないかと思っているわけです。