3月 22 2008
時間と別れるための50の方法(3)
ルシファーとしての光は左右方向に横切る光。それは秒速30万Kmとしての光。
ルシフェルとしての光は奥行き方向に存在する光。それもまた秒速30万Kmとしての光。
これら二つの光の違いとは一体何か——。
奥行き、つまり身体にとっての「前」という方向性は左-右でも上-下でもない何か特別な方向性です。僕らの見るという行為はこの「前」という方向性においてしか成立することはありません。現象とは「前」で光として開示している何ものかです。ハイデガーという哲学者は『存在と時間』という著書の中で、「現象」を「自らをそれ自身に則して示すもの」として規定し、存在を現象にもたらすことを現象学の根本課題と見なしていました。存在は、あらゆるものが現出してくるその根拠として先行的に了解されているという意味では、最も自明であり、最も現象の名にふさわしいものですが、「わたし」という自我が出来上がったのちの認識される世界においては、現象は姿を隠し、それは匿名的に機能し隠蔽されてしまいます。時空という名において捉えられる「前」と、それ以前にある「前」とは、その意味で全く違うものとして考える必要があるわけです。
奥行きに左右と同じ幅という概念を与えることによって長さを持たせることは、現象そのものを見えなくさせてしまいます。現象とはいかなる判断をも与えられる以前の裸形の「前」のことであり、この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。前回、奥行き方向とは時空の方向であり、そこには空間的距離とともに時間の経過も含まれていると言いました。とすれば、奥行き方向が一点で同一視されているというこの知覚的現実は、そこにすべての時間的経過をも内包している、ということになります。「わたし」がこの世に生を受けたのがたとえ50年前だとしても、この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。つまり、奥行き方向に存在する光においては、「今、ここ」と宇宙の始源の場所とは同じものとして考える必要があるわけです。僕がいつも「始源(アルケー)」と呼んでいるのはこの薄い皮膜、存在の皮膚としての光のことを言います。
アルケー=光。この覚知に至ることがヌース理論でいう「人間の外面の位置の顕在化」です。今まで人間の意識の営みの中で隠蔽されていたほんとうの主体が姿を現すのです。この奥行きにおいての無限小の厚みの中に、今という永遠が存在している。そして、そこが「わたし」という存在の根本的なプラットフォームになっている。現存在としての人間が位置する場所にはこのような永遠が常にセットになって張りついています。これをクリスチャンならば「我、神とともにここに居ます」と表現することでしょうし、哲学者であれば「不動の大地」と呼ぶことでしょう。こうした思考のもとにおいてのみ、何故に相対論において光速度が絶対的な役割を果たしているのかが分かってきます。物理学が解釈を放棄している4次元不変距離(ds^2 = dx^2 + dy^2 + dz^2 – c^2dt^2 ds^2 = 0)の本質的な意味が見えてくるわけです。
目の前で無限小の厚みにまで潰された時空。これが現象の基底としての光の正体であり、その光が持つ速度のもとでは時計の針は止まり、空間は無限小の長さにまでに縮まり、4元ベクトルゼロが出現してきます。つまり、何が言いたいのかというと、一点同一視された奥行き方向としてのこの4次元こそが、アインシュタインが言うところの「無限大の速度としての役割を演じている光」そのものの意味だということです。そして、この永遠が張りついた場所こそが時間の流れ自体を感じ取っているほんとうの主体の位置にほかなりません。要は、ほんとうの主体とは見ているものでも、見られているものでもなく、見ることそのもの、つまり、光だということなのです。このことに人間の意識が気づいたとき、すべての人間は創造の開始者、つまり、アルケーとしてのイエス・キリストへと変身することが可能になります。
コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
永遠の相のもとに現れる形。これがOCOTが「カタチ」と呼ぶ、形本来の形のことです。このことは、幾何学とは本来、永遠という場所性の中においてしか意味を持ち得ないということを物語っています。時空の中でカタチを構成するのは原理的に不可能です。たとえば、僕らが地球と月を結ぶ38万kmの長さの線分をイメージするとしたらどうでしょう。たとえその線分を光速度で追いかけたとしても、時空の中では1.3秒ほどの時間かかってしまうことになります。しかし、実際の意識を確かめてみれば分かる通り、月までの距離を想像するのに時間は必要としません。カタチはその大きさがどのようなものであれ、一瞬で即時に把握されている何かです。また、一瞬で把握されなければカタチという概念自体が意味を持たないものになってしまうことでしょう。正4面体を構成する4つの頂点を認識するとき、それぞれの点の把握にタイムラグがあれば、正四面体というカタチについて何も言えなくなります。ほんとうの主体とは永遠性のことであり、この無時間の主体の位置の連携によって初めて幾何学というものが構成されてくるのです。
オ : 人間の意識はカタチを見る方向に入っています。わたしたちのいうカタチとは見られるものではなく、見ているもののことなのです。
目の前に表れた視野空間上にx軸とy軸の十字架をそっと置くこと。そして、そこで磔刑に処されている光の意味について考えること。さらに言うならば、そこに垂直にイメージ化されている3次元目のz方向の意図について深く思考すること。このz方向としての幅と同一化してしまった空間的奥行きとは、光の身体であるイエスの脇腹に刺されたロンギヌスの槍のことであり、人間の意識をシリウスに接続させることを妨げている深淵のことなのです。この深淵の支配者が時間であり、人間という次元の本性です。
アルクトゥルス
2008年3月25日 @ 09:47
こんにちは。
コウセンさんのテクストにはいつもインスパイアされつづけています。
>この純粋知覚としての現象は視野空間上でペタンと面に潰され、薄い皮膜(アンフラマンス)のようなものとして存在させられています。
ダグラス・ハーディングとコウセンさんが対談をしていたら、デヴィッド・ボームとクリシュナムルティ以上に魅惑的な展開となった気がします。ダグラスの実験に、「目の近くに置いた指と遠くの人間では、人間の方が小さい」といったニュアンスのものがありますが、ダグラス自身の説明ではその実験の意味をうまく説明できていない気がします。ですが、コウセンさんであればこのことをうまく説明できるのでしょう。「奥行きのない視野空間上では明らかに指の方が大きい」と。
>この純粋知覚の中に含まれている奥行きという空間の深みの中には137億年という宇宙開闢以来の時間の流れが一緒に畳み込まれているということです。
原初の光を中心に置いた胎蔵界曼陀羅がまさにそれを図示しているんでしょう。
>コ : 見ること自体が「真の主体」なのではないですか?
オ : はいそうです。有機体(カタチのない精神)が最初のカタチを持ったということです。
このやりとりから、ニサルガダッタ・マハラジの対話を思い出しました。質問者はダグラス・ハーディングのワークで「私」を見いだした人です。
------------
質問者
それはまったく突然でした。何かまったく忘れ去ってしまったことが、記憶に戻ってきたように。あるいは突然のひらめきの理解のようでした。「何とシンプルだろう」と私は言ったのです。「何とシンプルだろう。私は、私が考えていたものではなかった! 私は知覚されるものでも、知覚する者でもない。私はただ知覚することなのだ」と。
マハラジ
知覚することでさえない。
だが、それらすべてを可能にするものだ。
--------------
ここで、質問者は「真の主体」について語り、マハラジは「有機体(カタチのない精神)」について語っているのだと思います。
この後、「後ろ」についての話も出てくるのでしょうか。楽しみに待っています。
kohsen
2008年3月26日 @ 17:07
アルクトゥルスさん、こんにちは。
>ダグラスの実験に、「目の近くに置いた指と遠くの人間では、人間の方が小さい」といったニュアンスのものがありますが、ダグラス自身の説明ではその実験の意味をうまく説明できていない気がします。ですが、コウセンさんであればこのことをうまく説明できるのでしょう。「奥行きのない視野空間上では明らかに指の方が大きい」と。
うまく説明できるかどうかはまだ分りませんが、視野空間は射影幾何学の世界になっていて、そこでは、ユークリッド空間的な合同変換(大きさや角度を保った変換)が全く意味を持たなくなっているということだと思います。
ヌース理論では奥行きをペッタンコに見ることがそのまま「人間の外面」の意味になります。シュタイナーはエーテル界の記述に最もふさわしい幾何学は射影幾何学だ」と言っていたそうですが、その意味で言えば、ハーディング氏のこの考え方は物質体(時空)ではなく、エーテル体上の問題だということができますね。
>マハラジ
>知覚することでさえない。
>だが、それらすべてを可能にするものだ。
これはかなり強烈な言葉です。ヌース理論でいう有機体とは、時空のことを意味しているのですが、ここに物質を送り込んできている本質力が重力として解釈されます。物理学的に言えば、平らな時空を曲げているわけです。重力はその意味で、前次元の一者の精神がもたらしてきた力ということになるのではないかと考えています。
>この後、「後ろ」についての話も出てくるのでしょうか。楽しみに待っています。
はい、この「時間と別れるための50の方法」シリーズはページ数の関係でアドバンスト・エディションに書けなかった内容をフォローアップのつもりで書いています。あまりに難解だという意見が多々見受けられるので、僕なりの罪滅ぼしです(^^)。
@@@
2008年3月26日 @ 21:47
時空は本来ないのですね
kohsen
2008年3月27日 @ 20:10
人間の意識が作られる場としては「ある」のですが、それはあくまで言語による概念制作として「ある」という意味であり、実体としてはない、ということだと思います。
Φ=WHY?
2008年3月27日 @ 22:31
コウセンさん、こんばんは。
最近、視野空間に直交する奥行き、つまり、視線は「ルート図形」としての1次元の「線分」なのではないかって思います。要するに、視線という線分が実は、Spin(3)と同型のSU(2)そのものではないかという感じです。そして、視界空間がU(1)変換であり、「スカラー」的な役回りなのではないかと思います。実際、ゲージ場としての電磁場は、U(1)ゲージ変換において、共変微分の中でスカラー係数的なものです。つまり、Spin(2)と同型のU(1)は「点」ではないかと言うわけです。そして、視界空間が知覚正面として「平面」化してしまうのは、相互のSU(2)が直積化(SU(2)×SU(2))して、「ルート図形」としての2次元の「正方形」となるからではないだろうかと考えています。しかし、実際に私たちは、「ルート図形」としての2次元の「正方形」ではなく「正六角形」(水の鏡)を見ているというわけです。この「正六角形」がSU(3)です。この2次元の「正方形」はSpin(4)と同型のSU(2)×SU(2)を表現しているだけでなく、各辺の中点と合わせれば、次の段階のSpin(5)と同型のSp(2)をも表現していることになります。でも必ずしも「正六角形」(水の鏡)が悪いわけではありません。この「正六角形」の前後に双対で逆向きの「正三角形」を組み合わせた「ベクトル平衡体」として全体構造を見れば、Spin(6)と同型のSU(4)の構造をなします。さらに、「ベクトル平衡体」の12個の点以外に、内接する正8面体の6個の点を加えれば、Spin(7)のルート図形になります。知覚正面としての「正方形」を超えることの難しさが、こうした図形イメージからも伺い知れるのではないでしょうか。ちなみに、これら全体を超越者的位置から見下ろしているとも言えるのが、「4次元の正24胞体」(4次元の菱形12面体的な存在)であり、これがSpin(8)のルート図形です。
kohsen
2008年3月28日 @ 14:56
Φさん、こんにちは。
ルート図に関してはまだ知識不足なので、当てずっぽでしか返答できませんが、お許し下さい。
>つまり、視線は「ルート図形」としての1次元の「線分」なのではないかって思います。要するに、視線という線分が実は、Spin(3)と同型のSU(2)そのものではないかという感じです。
モノを挟んで対峙する自他相互の視線を繋ぎ合わせたものという意味ならば、そうだと思います。
>そして、視界空間がU(1)変換であり、「スカラー」的な役回りなのではないかと思います。実際、ゲージ場としての電磁場は、U(1)ゲージ変換において、共変微分の中でスカラー係数的なものです。
僕も似たようなイメージを持っています。OCOT情報に次のようなものがあります。
面とは垂質、ヒトにおいては垂質とは点。
垂質というのはアドバンスト・エディションでも書いたように、知覚球面を視線方向を軸として回している状態のカタチを意味しますが、この軸はそのままスピノールの意で理解しています。ただ、U(1)と3次元球面の自転がどのように関係しているのか。。SO(4)の第四晩目の回転がSO(2)→U(1)という連結を持っているのでしょうか?このへんのΦさんのお考えを聞ければ幸いです。
>つまり、Spin(2)と同型のU(1)は「点」ではないかと言うわけです。そして、視界空間が知覚正面として「平面」化してしまうのは、相互のSU(2)が直積化(SU(2)×SU(2))して、「ルート図形」としての2次元の「正方形」となるからではないだろうかと考えています。
SU(2)×SU(2)がもしψ9に対応しているとすれば、OCOT情報との辻褄は会ってきますね。
コ : 思形とは何ですか。
オ : 平形投影のようなものです。
ちなみに、ヌースの文脈では、ψ*9はψ3に凝縮化として入り込んできます。
>しかし、実際に私たちは、「ルート図形」としての2次元の「正方形」ではなく「正六角形」(水の鏡)を見ているというわけです。この「正六角形」がSU(3)です。
すでに空間が僕らの前に開示した時点で、次元の重なりが表れてきているということですね。観察空間、観察空間の観察、そして、観察空間の観察の観察。意識ある6人の人間が正八面体の6つの頂点に配置されれば、それだけの観察空間の多重性が生まれるということだと思います。ルート図に表される正6角形はそれをさらに第四の軸から見ていますね。
>この2次元の「正方形」はSpin(4)と同型のSU(2)×SU(2)を表現しているだけでなく、各辺の中点と合わせれば、次の段階のSpin(5)と同型のSp(2)をも表現していることになります。でも必ずしも「正六角形」(水の鏡)が悪いわけではありません。この「正六角形」の前後に双対で逆向きの「正三角形」を組み合わせた「ベクトル平衡体」として全体構造を見れば、Spin(6)と同型のSU(4)の構造をなします。
ですね。SU(3)の虚実三軸が近代理性を構成していた視線構造で、SU(4)に入って、ポストモダン的な分裂症領域の視線が加わったということだと考えています。ユークリッド回転群で言えば、SO(6)でしょうか。
>さらに、「ベクトル平衡体」の12個の点以外に、内接する正8面体の6個の点を加えれば、Spin(7)のルート図形になります。
Spin(7)のルート図形ってのは覚醒のカタチなのかなぁ。。その内接する正8面体はアイソスピン空間と関係はありませんか?PSO回路で見ると、S^7はS^3と重なっているように見えます。次元観察子でいうとψ13とψ*7の関係です。
>知覚正面としての「正方形」を超えることの難しさが、こうした図形イメージからも伺い知れるのではないでしょうか。
やはりSU(3)が問題なのだと思います。この力は文字通り強いです(笑)。ちなみに、OCOTは重力と強い力が同じ力の逆性にあると言ってます。ヌース用語で言えば、「精神における対化の等化」と「次元における対化の等化」の関係かな。。
>ちなみに、これら全体を超越者的位置から見下ろしているとも言えるのが、「4次元の正24胞体」(4次元の菱形12面体的な存在)であり、これがSpin(8)のルート図形です。
ワァオ!! すごいですね。ルート図形の研究はそんなところまで進んでいるんですね。
いろいろと教えて頂き、刺激になります。専門的なところはまだまだ知識不足ですが、何とかイメージだけは追いかけて行きたいと思います。
Φ=WHY?
2008年3月30日 @ 00:20
コウセンさん、こんばんは。レスありがとうございます。またちょっと長くなるかもしれませんが、すみません(^^;)。
>> つまり、視線は「ルート図形」としての1次元の「線分」なのではないかって思います。要するに、視線という線分が実は、Spin(3)と同型のSU(2)そのものではないかという感じです。
> モノを挟んで対峙する自他相互の視線を繋ぎ合わせたものという意味ならば、そうだと思います。
この「線分」の意味は、モノの中心の位置を「原点」とするなら、自己から他者への視線の反転であるσzを、1/2(1+σz):自己からモノへの方向の視線、1/2(1-σz):他者からモノへの方向の視線に分解して考える。これらを互いに入れ替えるのが、σ+=1/2(σx+iσy):(自己からモノへ)を(他者からモノへ)に視線を反転する、σ-=1/2(σx-iσy):(他者からモノへ)を(自己からモノへ)に視線を反転する、という操作ではないかと思います。
>> そして、視界空間がU(1)変換であり、「スカラー」的な役回りなのではないかと思います。実際、ゲージ場としての電磁場は、U(1)ゲージ変換において、共変微分の中でスカラー係数的なものです。
> 僕も似たようなイメージを持っています。OCOT情報に次のようなものがあります。「面とは垂質、ヒトにおいては垂質とは点。」垂質というのはアドバンスト・エディションでも書いたように、知覚球面を視線方向を軸として回している状態のカタチを意味しますが、この軸はそのままスピノールの意で理解しています。
整理して言いますと、ψ5~ψ6=Spin(3)=Sp(1)=SU(2)=S^3が「線分」(A1格子)に対応します。ルート系の図形は、点が重要であり、点をいわば位置ベクトルとするような感じで図形表現されています。つまり、ルート図形における「点」は1つの自由度を示しているとも言えます。そうした1つの自由度に相当するものがψ3~ψ4=Spin(2)=U(1)=SO(2)=S^1なのではないかというわけです。したがって、3次元回転SO(3)の被覆群Spin(3)に対応するルート図形である「線分」(A1格子)の両端の各「点」がそれぞれにψ3~ψ4=Spin(2)ではないかというわけです。
スピノルを基本的に表現しているのは、Spin(3)であり、その自由度は「3」です。これはルート図形のどこに表現されるかというと、「線分」(A1格子)の両端の「2」点です。では、その差異の「2」はどこへ行ったかと言いますと、それが、このルート図形を表現しているルート空間の次元数になるようです。つまり、簡単に言えば、Spin(3)などの群の自由度は、それに対応するルート図形(=格子)の点の数+ルート空間(ルート図形が描かれる空間)の次元数と等しいようです(実際、これは少なくとも、上位の8次元空間くらいまで一致するようです)。
> ただ、U(1)と3次元球面の自転がどのように関係しているのか。。SO(4)の第四番目の回転がSO(2)→U(1)という連結を持っているのでしょうか?このへんのΦさんのお考えを聞ければ幸いです。
これについては、即答は難しいので、少し考えさせてください。ただ、参考までに、4次元回転についての考えだけ述べておきます。
4次元回転SO(4)の被覆群であるSpin(4)は、ψ7~ψ8=Spin(4)=Sp(1)×Sp(1)=SU(2)×SU(2)=S^3×S^3が「正方形」格子(D1格子)であり、「知覚正面」として機能するのではないか考えています。ちなみに、n次元回転群というのは、n次元空間における回転という意味ですから、n本の回転軸があるということではありません。3次元回転までは、回転の自由度と空間の次元数が一致しているのでややこしくならないのですが、4次元回転になると、回転の自由度は「6」となって、空間の次元数より高くなります。このSpin(4)の場合は、ルート図形は「正方形格子」(D1格子)であり、その格子点の数は「4」ですから、これにルート空間の次元数「2」を足せば、「6」となり、確かにSpin(4)の自由度と一致します。
>> つまり、Spin(2)と同型のU(1)は「点」ではないかと言うわけです。そして、視界空間が知覚正面として「平面」化してしまうのは、相互のSU(2)が直積化(SU(2)×SU(2))して、「ルート図形」としての2次元の「正方形」となるからではないだろうかと考えています。
> SU(2)×SU(2)がもしψ9に対応しているとすれば、OCOT情報との辻褄は会ってきますね。 コ : 思形とは何ですか。 オ : 平形投影のようなものです。ちなみに、ヌースの文脈では、ψ*9はψ3に凝縮化として入り込んできます。
ψ9~ψ10=Spin(5)=Sp(2)は、B2格子に対応しますから「正方形の頂点+各辺の中点」(8個の点)になります。まあ、そういう意味では「正方形」と言えば「正方形」です。「正方形」の延長として考えられる「知覚正面」という意味です。格子点の数が「8」個ですから、ルート空間の次元数「2」を足せば、「10」となり、5次元回転群SO(5)の被覆群であるSpin(5)の自由度と一致します。この「正方形の頂点+各辺の中点」のうち、各辺の中点同士を結んだものは「45度傾いた正方形」になりますが、もとの「正方形」も「45度傾いた正方形」も、「ベクトル平衡体」(12の頂点)からの射影だと思います。
>>しかし、実際に私たちは、「ルート図形」としての2次元の「正方形」ではなく「正六角形」(水の鏡)を見ているというわけです。この「正六角形」がSU(3)です。
> すでに空間が僕らの前に開示した時点で、次元の重なりが表れてきているということですね。観察空間、観察空間の観察、そして、観察空間の観察の観察。意識ある6人の人間が正八面体の6つの頂点に配置されれば、それだけの観察空間の多重性が生まれるということだと思います。ルート図に表される正6角形はそれをさらに第四の軸から見ていますね。
SU(3)に対応する「正三角形格子」6個を合わせた形が「正六角形」のA2格子です。ルート図形である「正六角形」の頂点の数「6」+ルート空間の次元の数「2」=「8」はSU(3)の自由度と一致します。
>> この2次元の「正方形」はSpin(4)と同型のSU(2)×SU(2)を表現しているだけでなく、各辺の中点と合わせれば、次の段階のSpin(5)と同型のSp(2)をも表現していることになります。でも必ずしも「正六角形」(水の鏡)が悪いわけではありません。この「正六角形」の前後に双対で逆向きの「正三角形」を組み合わせた「ベクトル平衡体」として全体構造を見れば、Spin(6)と同型のSU(4)の構造をなします。
> ですね。SU(3)の虚実三軸が近代理性を構成していた視線構造で、SU(4)に入って、ポストモダン的な分裂症領域の視線が加わったということだと考えています。ユークリッド回転群で言えば、SO(6)でしょうか。
ψ11~ψ12=Spin(6)=SU(4)に対応するルート図形であるA3格子の頂点はベクトル平衡体の頂点「12」個ですから、これにルート空間の次元「3」を足せば、6次元回転SO(6)の被覆群であるSU(4)の自由度「15」と一致します。SU(4)の図と言えば、中間子構造を説明するときに、よく登場しますよね。ψ11~ψ12が「分裂症」構造(スキゾ構造)になるのは、ここで、ルート図形を描くルート空間の次元が「2」から「3」に次元上昇し、「知覚正面」で捉えている人間の視覚だけでは図形化が追い付かなくなるからではないでしょうか。つまり、人間が「知覚正面」という2次元「平面」から、3次元「空間」を組み立てる精神領域がこの辺りなのだと思います。
>> さらに、「ベクトル平衡体」の12個の点以外に、内接する正8面体の6個の点を加えれば、Spin(7)のルート図形になります。
> Spin(7)のルート図形ってのは覚醒のカタチなのかなぁ。。その内接する正8面体はアイソスピン空間と関係はありませんか?PSO回路で見ると、S^7はS^3と重なっているように見えます。次元観察子でいうとψ13とψ*7の関係です。
ψ13~ψ14=Spin(7)に対応するルート図形であるB3格子はベクトル平衡体の頂点12個+内接正8面体の頂点6個=「18」個の点でできています。これにルート空間の次元数「3」を加えると、「21」となり、7次元回転群SO(7)の被覆群であるSpin(7)の自由度と一致します。
>> 知覚正面としての「正方形」を超えることの難しさが、こうした図形イメージからも伺い知れるのではないでしょうか。
> やはりSU(3)が問題なのだと思います。この力は文字通り強いです(笑)。ちなみに、OCOTは重力と強い力が同じ力の逆性にあると言ってます。ヌース用語で言えば、「精神における対化の等化」と「次元における対化の等化」の関係かな。。
SU(3)はSpin(n)に同型なものはなく、自由度の位置としてはSpin(4)とSpin(5)の間になります。ただ、上記のルート空間内における射影的な意味としては、ベクトル平衡体の切断面としての「正六角形」になります。
>> ちなみに、これら全体を超越者的位置から見下ろしているとも言えるのが、「4次元の正24胞体」(4次元の菱形12面体的な存在)であり、これがSpin(8)のルート図形です。
> ワァオ!! すごいですね。ルート図形の研究はそんなところまで進んでいるんですね。
8次元回転群SO(8)の被覆群であるSpin(8)に対応するルート図形であるD4格子は「正24胞体」であり、ルート図形の頂点の数「24」+ルート空間の次元数「4」=「28」がSpin(8)の自由度と一致します。…すみませんが、取り急ぎこんなところです。
アルクトゥルス
2008年4月2日 @ 09:08
>はい、この「時間と別れるための50の方法」シリーズはページ数の関係でアドバンスト・エディションに書けなかった内容をフォローアップのつもりで書いています。あまりに難解だという意見が多々見受けられるので、僕なりの罪滅ぼしです(^^)。
よろしくお願いします。僕もアドバンスト・エディションを頭を抱えながら読み進めたいと思います。
それにしても、Φ=WHYさんとの対話の内容も気になりますね。数学の素養のない僕の頭ではまったく理解できませんが。
kohsen
2008年4月2日 @ 22:03
僕もΦさんの群論からのガイドはとても役立っています。
予想としては、この方面から、惑星周期の秘密が解き明かされてくるかもしれません。
というか、Φさんは狙っているはずです(^^)。