4月 5 2007
一者、プネウマ、プシュケー、そしてヌース
>半田さんは多分自然というデザインの美しさを見たことがないんでしょうね。
見たことはありますが、見ていない、というのはありますね。
ヌースの力は古代において神の思惟と呼ばれていました。これはいうまでもなくプラトンにいう「想起」のことです。
再び思い起こすこと——これは反復不能とされる反復のことであり、いわば存在における最も奥深い差異です。
こうした差異に思考を侵入させていくこと。これが伝統的な形而上学上における「創造」のビジョンだろうと考えています。
この創造に着手するためには、身体とともにある眼差しではダメで、全く別の眼差しが必要になります。
身体とともにある眼差しとは、言うまでもなく男のものです。
その眼差しに晒されて、女=マリア(物質)は美を具現化しています。
この美に触れたとき、男が取るべき選択肢はそうは多くはありません。
一つは彼女を拷問にかけ徹底的に陵辱するか、
もう一つは、彼女の足下にひれ伏し、それを永遠の神秘として崇拝するか、
そして、もう一つは、右往左往するか——この三つです。
自然の美の背後には必ずや〈一者なるもの〉の霊力が存在しています。
というのも自然の美はクオリア=此のもの性としてしか出現のしようがないからです。
クオリアとは空と大地が接合するところに飛散するプネウマの火花です。
このプネウマの火花は、〈一者なるもの〉の霊力の飛沫です。
マリア=物質は、この飛沫の中において初めてアイオーンという永遠の住処へと向けて美をスプラッシュさせるのです。
それを受け取るものが子宮=コーラと呼ばれる魂のカタチです。
一者、ブネウマ、プシュケー。
これら三つのものは、円環のシステムの中で完全を為しています。
よって差異を介入させることはありません。
完全を為すという意味では、この円環は閉じています。
想起とはこの円環の断ち切り方を思い出すことだと思っています。
魂を魂として魂の場所に押しとどめておくのではなく、
魂をこころの反復力として変容させること。
当然、こうした所作は男の眼差しでは無理です。
ヌースが作り出したいと思っている眼差しは「身体なき眼差し」です。
この眼差しは光を見ることはできません。
光とはユダヤの古い教えに従えば、女の皮膚の意を持つもののことですから、この眼差しは女の肌の美しさに眩惑されない眼差しを意味することになります。
こうした眼差しこそが、はじめて先に挙げた三つの眼差しと差異を持つことができるのです。
その意味では、女の眼差しと呼んでいいものです。
女の眼差しが見つめているものは、子宮=コーラです。というのも、女のまなざしには、新しく生まれてくる子供の場所を守護する役目があるからです。
王が宿る、ということを語源とするこの子宮はおそらく何ものにも先行する始源の器官です。
そして、当然、この子宮は見えるものではありません。
想起は子宮に入るところから始まります。
あえて独断調で書きましたが、言うまでもなく、これらはすべて僕の私見です。
rinetix
2007年4月5日 @ 23:04
徹底的にこき下ろしたり
神のごとく崇めてみたり
右往左往してみたりしましたが
彼女曰く
「ごめん、私、質量がないから」
とのこと。
鉄壁です
何もできません (ぉ)
相変わらずアウフヘーベン・クロージャーな方です
S-D
2007年4月8日 @ 10:36
「見ること」は、もろもろの感覚において潜在的に働いていると思いますが、素朴な意味での「眼で見ること」においては、見ることの二重化があるというような気がします。この場合においては、見ることの“相殺”が為されていると言えるのではないでしょうか。見ることの“顕在化”とは、ある種の境界性であり、そのことはまた、境界というひとつの「位置」にあるという言い方もできるのではないでしょうか。つまり、見ることの本質性は、もともと本来的に、能動/受動、主観/客観の二項関係を止揚しているのではないかということ。それはつまり、ひとつの「位置」であるということに他ならないなんらかの場所性であるというようなこと。「見ること・見られること」、という事態そのものが引き起こっている一つの場所、位置、ですね。「見ること=見られること」という表現であるよりは、それはすでに、見る、見えということの、純粋に、位置ということのみを、言うものではないでしょうか。そこに、「眼=鏡」という本質があるような気がします。この境界性が、具体的身体においては、触覚として機能し、ここにおいても、触れること=触れ合うことの、相殺が為されているような気がします。
Φ=WHY?
2007年4月14日 @ 19:18
コウセンさん、お元気ですか。いろいろとご多忙のことと思います。
コウセンさんが、「三つのもの」と言われるもののうち、「一つは彼女を拷問にかけ徹底的に陵辱するか」は「オリオン(反核質)の構造」と関係があり、「もう一つは、彼女の足下にひれ伏し、それを永遠の神秘として崇拝するか」が「プレアデス(核質)の構造」と関係があり、「そして、もう一つは、右往左往するか」は「シリウス(無核質)の構造」と関係があって、実はそれらの構造が見えないために、起きている現実であるようにも思います。
おそらく、これら3つの構造は、ヌースで言うところのプラトン座標系で、「反核質の構造」=「正6面体構造」、「核質の構造」=「正8面体構造」、「無核質の構造」=「正4面体構造」に相当し、高次元幾何学においては、それぞれ「超立方体」「正軸体」「正単体」と呼ばれる幾何学構造によって、規定されるものではないだろうかと考えます。ただ、シリウス構造の場において、オリオン-プレアデス双対の構造が実現されるとき、既に、シリウス構造はハイパー・シリウス構造によって、「無核質」から「既核質」に貶(おとし)められていると思います。そういう意味では、より正確には、「既核質の構造」=「正4面体構造」、「無核質の構造」=「球体構造」(胞単体構造)となるのではないかと思います。
Φ=WHY?
2007年4月16日 @ 08:17
PSO回路およびcave compassを周回させているエンジンは、おそらく、私が勝手に「ハーフ・シリウスの法則」と名づけている仕組みによって運営されていると考えています。
「ハーフ・シリウスの法則」とは、次元上昇演算子を「シリウスA」、次元下降演算子を「シリウスB」、次元推進演算子を「シリウス」自身(「シリウスC」と名づけてもよいのだが)、反環演算子を「オリオン」、円心演算子を「プレアデス」とし、構造定数や係数などを省略して大雑把に書けば、それらの関係は、1/2[シリウスA,シリウスB]=[オリオン,プレアデス]=シリウス、オリオン=1/2(シリウスA+シリウスB)、プレアデス=1/2i(シリウスA-シリウスB)、[シリウス,シリウスA]=シリウスAを1つ上げる、[シリウス,シリウスB]=シリウスBを1つ下げる、という感じになると思います(イメージとしては、『人類が神を見る日』(p.80)の図を参照のこと)。
[オリオン,プレアデス]=シリウスという演算においては、ハイパー・シリウスは計算途上には登場しますが、最終構成(?)にはまたく登場しません。そういう意味では、「シリウス」という機能は、プラトン座標系における真の並進(差異)機能と言え、「オリオン」と「プレアデス」という機能は真の回転(反復)機能と言えるのではないかと思います。もちろん、私たちは「シリウス」という機能が見えないどころか、「オリオン」という機能も「アンチ・プレアデス」の機能としか想定できず、「プレアデス」という機能の中で翻弄されているわけですが…。
差し詰め、「プレアデス」という機能は、精神構造的には宇宙の「爬虫類脳」といったところでしょうか。なんだか、「十牛図」における「牛飼い」が「オリオン」という機能、「十牛図」における「牛」が「プレアデス」という機能にも見えますね。「十牛図」で8枚目の「空」の図はまさしく「十牛図」を覗き込む、私たち自身を映し出す「鏡」=「コーラ」であり、それこそが「シリウス」という機能なのだと思いました。
kohsen
2007年4月17日 @ 13:21
Φさん、お久しぶりです。
現在、公私ともどもにわたり、てんやわんやしております。
ブログの方もとんとご無沙汰でROMの皆さまにも大変申し訳なく思っています。
>コウセンさんが、「三つのもの」と言われるもののうち、「一つは彼女を拷問にかけ徹底的に陵辱するか」は「オリオン(反核質)の構造」と関係があり、「もう一つは、彼女の足下にひれ伏し、それを永遠の神秘として崇拝するか」が「プレアデス(核質)の構造」と関係があり、「そして、もう一つは、右往左往するか」は「シリウス(無核質)の構造」と関係があって、実はそれらの構造が見えないために、起きている現実であるようにも思います。
もうこのへんのところは僕の解説も必要ないでしょう。ヌースが指し示す精神構造の大まかな風景についてはΦさんももうはっきりと見えているのではないかと思います。細かい詳細はそれこそ数理物理が提示する演算構造の翻訳に頼るしかないのですが、この点ではΦさんの方が遥かに具体的なビジョンをお持ちのようです。
>差し詰め、「プレアデス」という機能は、精神構造的には宇宙の「爬虫類脳」といったところでしょうか。なんだか、「十牛図」における「牛飼い」が「オリオン」という機能、「十牛図」における「牛」が「プレアデス」という機能にも見えますね。「十牛図」で8枚目の「空」の図はまさしく「十牛図」を覗き込む、私たち自身を映し出す「鏡」=「コーラ」であり、それこそが「シリウス」という機能なのだと思いました。
おっしゃる通りです。8枚目の「空」とは人間の内面の意識が活動する場所のようなもので、言葉の位置だと思います。コーラとの絡みで言えば、子宮に散種されたロゴスのことですね。
アリストテレスのコーラ観はもともと「物体の内部を占有している空間」という意味でした。しかし、物体の内部を占有する空間を僕らは直接目にするこはできない。ショーペンハウエルによれば、それは意思の場です。ヌースでは付帯質の内面という概念が出てきますが、それがこの「コーラ」に当たります。聞く言葉の位置のようなものでしょうか。。。
この「空」に捕囚された言葉の種をいかにして発芽させるか、それがヌースが関わっている問題です。ミトラ教的に言えば、牛を殺す必要があるというわけです。それは物質概念を消滅させることであり、これによって意識は無核質の位置に出ることが可能になると思われます。
とってつけたようなコメントですが(^^)。
もう少しで現場復帰します。しばしお待ちを。
Φ=WHY?
2007年4月18日 @ 13:56
コウセンさん、お忙しいところレスありがとうございます。
ちなみに、今私が自分のブログで連載しているシリーズ「空間を眺める視線」(現在(1)~(4)まで)は、実は、ヌースで言うところの「プラトン座標系」(プラトン・コーディネーツ)を私なりに分析して説明しようとしたものです。現段階の(1)~(4)では、正単体(3次元では正4面体)を中心として、次元間のつながりを含めて、自己と他者の視線が交差していく状況とはどのようなものであるかを、さぐっているところです。「時間」自体が「観察者」の視線としてどのように生まれていくかもおぼろげながら登場します。
現段階の説明では、量子論および素粒子物理学との関連にまで及んでいませんが、おおよそその影はつかみかけています。現時点での私の考えでは、私たちの住む3次元空間(+1次元時間)の由来は、直接的には複素5次元になるのではないかと睨んでいます。この辺の理由についてもいずれうまく説明できればと考えていますし、PSO回路との整合も少しずつとっていければ、と思っております。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
夏羽
2007年5月4日 @ 16:41
“Some scientists acknowledge that one teaspoon of DNA, if it could be harnessed, contains more power than all the computers in the world. This is something to think about, especially being that you have much more than a tea spoon of DNA. You are supreme beyond all technological inventions, therefore, you must really begin to value yourself and understand how your biological computer is programmed. Consider for a few moments what is stored in your DNA. What data-bases exist for you to use, if you focus and call up the file? “
私たちのバイオロジカル・コンピューターがどのようにプログラムされているか。人類は当然遺伝子組み換えによって創られた種であり、今の物質社会というのは、コンピューターがウイルスに荒らされてどうにもならなくなった状態と似ている。コンピューターを本来プログラムされた状態に戻すためには、カオス、すべてを消し去って初期化する、またはウイルスに侵されたままで何か新しい創造が可能だろうか?
今の人類は、ウイルスに荒らされたコンピューターが、初期化する、または初期の状態から学ぶことを拒み、狂気の道を進み続けているようにも見える。
もちろん初期化以外の解決策の可能性を否定してはいない。
自然の美、美しさとは、当然優しさだけではなく、強さ、弱さ、残酷さ、恐怖、すべての要素が美となりえる。
私たちは人(または惑星外、異次元生物)が語る言葉、そして書物が語る言葉から多くの知識、情報を得る。しかし現代の人類は「見る」ことによって得られる、言葉以外の貴重な情報に対して、あまりにも無頓着なようだ。
自然、月、太陽、星、宇宙を見ると、そこには形、シンボル、数字があり、目から私たちはオリジナルハードウェアが持つ、多くの知識、叡智を得ることができるに違いない。それは私たちの健在意識に直接言葉という形でうったえてくるものではない。けれどもそれらは消化され、整理され、いつか言葉にも影響を与えるだろう。私たちはいつからか言葉以外の学びの方法があるということを忘れてしまっている。占星術師は果たしてチャートだけでなく、実際の星空を見ているだろうか?
目だけではなく、耳で聞く、匂いをかぐ、肌で感じる、口から食べる、または五感をすべて閉ざして、気を感じる。すべては貴重な情報源だろう。そしてこれらの情報、知識からは、multidimensional な言葉が生まれる。言葉だけの世界で交換された知識は、三次元の壁を越えることはないだろう。
「人間の意識は形を持っていない」とオコットさんは言っていたけれど、私にとって形を持たない意識というものの存在を考えることは難しい。
男も女も部分であると同時にひとつの全体であり、すべては1、男、陽、そして0、女、陰からできている。男は女性的な要素を持っており、女もまた男が内に存在しており、そして全体を形作っている。男に光が見えないという理屈は少しおかしくないですか?
私は特に、半田さんは女性的な部分を多く持った方だと感じている。
私は個人的に男男した男性、女々した女性は苦手だなあ。
けれども、暴力を特に好む男性が結構女性っぽい面を多くもっていたり、男性の前で声色と目をうるうるさせる女性がわりに男性っぽかったりする人たちを、何人か見てきた。
とにかく、女性、男性の定義はまったく一様ではなく、うお座の時代の性的な抑圧、操作は、今私たちの大きなトラウマのひとつになっていると思いませんか。
ところで、男性に乳首があるのは何故だろう?友人(日本人男性)の一人に乳首を八個持っている人がいる。機会があればオコットさんに聞いてみていただけませんか。
Φ=WHY?
2007年5月4日 @ 22:30
人間に長い間課せられている、男性中心主義的な「ものの見方」はいったいいつまで続くのだろうかと思う。もし、2000年もの長きに渡って続いているのだとしたらうんざりである。これではいつまで経っても、男性のミトコンドリアDNAが女性の卵子に拾われて受け継がれることなど永遠に訪れないかもしれない。男性のデリカシーはいったいどれくらい進化したのだろうか。女性に対する単なる形式だけのエスコートなどくそくらえだ。性的にしか崇拝しないような愚かな男性に、真に微細な何かを教えられるのはおそらく女性だけだというのに。月の蒼さに言葉でしか触れられない男性を尻目にして、女性はその肌の感覚で月の蒼さに触れる。だが、もどかしいほど歯がゆいくらい、からだの入らない言葉だけを並べ立てるしか、男性には能がない。女はそのたおやかな指で今すぐ月に触れてみせる。その術を知らない男どもは相変わらず今夜も無意味な言葉を並べ立て、いい気になっている。「へい、彼女。今からどうだい?」…男には世界は微分できない。分割するだけだ。無闇な分割と微分では天と地の開きがある。ああまだ、こんな愚かな時代は続くのか。
KUDO
2007年5月5日 @ 20:09
カバラでは1から両極をもつ2が、そしてそれを中和する3によって新しい力「4」が生まれることを説きます。
女性と男性に分かれているのがすでに2の状態。
子供を作るのは3。
これはYHVHヤハウェの真の意味でもありますが、すでにお分かりですよね?
その三位一体による新しい力がまた両極である2を作ることをシリウスファイルでは「対化」と言ってますが、それを等化すると新しい力である子供が生まれる。
電子対消滅はまさに両極の等化から力を生み出すいい例だと思います。
その場合に生まれる力は7。タロットでは戦車ですね。
ちなみに魔術では等化をソロモンの大秘奥とか魔術的均衡と言ってますけど、人生という時間の概念が人間が真実の人間に統合するまでの過程ゆえに時間が生じたため、均衡が確立された状態の中ゆえに時間がある、と教えます。
つまらない助言だと思って受け取ってください。