一者、プネウマ、プシュケー、そしてヌース

>半田さんは多分自然というデザインの美しさを見たことがないんでしょうね。

見たことはありますが、見ていない、というのはありますね。
ヌースの力は古代において神の思惟と呼ばれていました。これはいうまでもなくプラトンにいう「想起」のことです。
再び思い起こすこと——これは反復不能とされる反復のことであり、いわば存在における最も奥深い差異です。
こうした差異に思考を侵入させていくこと。これが伝統的な形而上学上における「創造」のビジョンだろうと考えています。
この創造に着手するためには、身体とともにある眼差しではダメで、全く別の眼差しが必要になります。
身体とともにある眼差しとは、言うまでもなく男のものです。
その眼差しに晒されて、女=マリア(物質)は美を具現化しています。
この美に触れたとき、男が取るべき選択肢はそうは多くはありません。
一つは彼女を拷問にかけ徹底的に陵辱するか、
もう一つは、彼女の足下にひれ伏し、それを永遠の神秘として崇拝するか、
そして、もう一つは、右往左往するか——この三つです。
自然の美の背後には必ずや〈一者なるもの〉の霊力が存在しています。
というのも自然の美はクオリア=此のもの性としてしか出現のしようがないからです。
クオリアとは空と大地が接合するところに飛散するプネウマの火花です。
このプネウマの火花は、〈一者なるもの〉の霊力の飛沫です。
マリア=物質は、この飛沫の中において初めてアイオーンという永遠の住処へと向けて美をスプラッシュさせるのです。
それを受け取るものが子宮=コーラと呼ばれる魂のカタチです。
一者、ブネウマ、プシュケー。
これら三つのものは、円環のシステムの中で完全を為しています。
よって差異を介入させることはありません。
完全を為すという意味では、この円環は閉じています。
想起とはこの円環の断ち切り方を思い出すことだと思っています。
魂を魂として魂の場所に押しとどめておくのではなく、
魂をこころの反復力として変容させること。
当然、こうした所作は男の眼差しでは無理です。
ヌースが作り出したいと思っている眼差しは「身体なき眼差し」です。
この眼差しは光を見ることはできません。
光とはユダヤの古い教えに従えば、女の皮膚の意を持つもののことですから、この眼差しは女の肌の美しさに眩惑されない眼差しを意味することになります。
こうした眼差しこそが、はじめて先に挙げた三つの眼差しと差異を持つことができるのです。
その意味では、女の眼差しと呼んでいいものです。
女の眼差しが見つめているものは、子宮=コーラです。というのも、女のまなざしには、新しく生まれてくる子供の場所を守護する役目があるからです。
王が宿る、ということを語源とするこの子宮はおそらく何ものにも先行する始源の器官です。
そして、当然、この子宮は見えるものではありません。
想起は子宮に入るところから始まります。
あえて独断調で書きましたが、言うまでもなく、これらはすべて僕の私見です。