3月 25 2007
水素原子の描像
今日はちょっと難しい話。
原子の本質を理解する意味でとても重要な議論を、現在、ヌース会議室上でΦさんと交わしている。Φさんはすでにヌース理論が提供しているケイブコンパスモデルの内容をほぼ理解されている。その上で、物理数学の専門的な知識との擦り合わせを単独で進めてられているようだ。Φさんの分析は、ヌース的に見て実のところとても鋭い。僕自身、物理学の知識が全然不足しているので追いかけるのが大変だが、観察子の描像を具体的に意識に浮上させていく上で大変有用なものとなっている。そこで、今日書いたΦさんへのレスをこちらのブログにも転載することにした。
前後関係もなく、具体的な解説も端折られているので、ここだけ読むとちょっと難しいかもしれないが、ヌース理論が主張したいポイントはただ一つ。水素原子とは人間が持った概念の構造であるということだ。それも、主観、客観、モノ、観測者といった、認識の起点となるべき基礎概念の構成であるということ。こうした考え方で原子を捉えられるようになってくれば、これからの人間は、精神即物質という世界観のもと、全く違う生き物に変容していける可能性がある。——それを作れ。そうすれば彼はやってくる。。。
Φさん、とりあえず、また一つだけに絞らせて下さい。
——おそらくこの離散値の由来はSpin(1)=O(1)ではないかと思います。軌道角運動量の演算子をL、スピン角運動量の演算子をS、ディラック行列をα、空間推進(つまり、量子力学的運動量)をp(いずれも3次元ベクトル風)とすれば、ハイゼンベルグの運動方程式より、
dL/dt=+(α×p)
dS/dt=−(α×p)
が成り立ちます。私の考えでは、αは4次元の時空的捩れを表現するものであり、dL/dtは「時空の推進」、ds/dtは「時空の反推進」と考えております。dL/dt+dS/dt=d(L+S)/dt=0ですから、この2者の「相殺」により、「全角運動量」J=L+Sが保存されることになります。「角運動量」は「空間の回転」に対する保存量ですから、「全角運動量」は「時空の回転」に対する保存量と呼んだ方がいいのかもしれません。——以上、Φさんの書き込みからの抜粋。
Φさんの物理数学的知識からくる構造分析をケイブコンパスに当てはめてみました。現在、僕が持っている描像とかなり符合する点が多いようです。かなり勇気づけられます。
ROMの皆さんを意識して、分かりやすく図で説明します。
ここでは電子のスピン角運動量と軌道角運動量との関係を考察しているわけですから、当然、電子はすでに核子(この場合、もっともシンプルに陽子1ケと考えましょう)に捕捉されています。ということは、陽子を形作った対称性がまず先に存在していて、そこに、新たに電子が加わっているという構図について話をしていることになります。
陽子はご存知の通り、ケイブコンパス上ではψ7として表現されます。ψ7が持つ対称性は今のところS0(4)です(SO(3)対称性をスピノールと見れば、SO(4)はSO(3)×S^3なので、SU(2)とも解釈できるのではないかと思います)。SO(4)対称性はプラトン座標では、正六面体の4本の体心立方軸(√3エッジ)をすべて等化するような回転として現れると考えています。すると、このときの回転軸は、今度は面心立方方向の一本の軸として出現してくることが分かります(下図1)。この方向がヌースが5次元と呼んでいるものの方向です。この5次元における双方向性、言い換えれば、SO(4)群の中心としての(Z,-Z)がO(1)=Spin(1)を観察しているのではないかと考えています。ヌースでいう「表相の等化」です。
「表相の等化」は知覚正面上における前後(表裏)を、左右と見なせるような認識の視座を意識に用意してきます。分かり易く言うと、実際にはモノの表と裏に見える部分を、意識にはそれを真横から見てあたかも左右方向のように見立てている想像力が含まれているということです。この想像力を提供している位置が表相の等化の位置に当たります。事実、幾何学認識の問題として、(Z,-Z)は左右方向(もしくは上下)でしか認識の対象に成りませんよね。ケイブコンパス上ではこの位置は下図2のように表すことができます。これは陽子のアイソスピンとも言えるのではないかと考えています。
さて、ここから、陽子による電子の捕捉が始まるわけですが、この段階で捕捉される電子はψ5(自己側の知覚球面)ではなく、ψ*5(他者の知覚球面=他者を規定している空間のカタチ)の形を模索している自己側の意識のカタチになっていると思われます。つまり、客観的モノ概念(ψ7=陽子です)を挟んで、ψ5とψ*5を対化として見れる視座の獲得です。
しかし、これだけでは、電子=ψ*5のカタチは軌道角運動量を持ち得ません。つまり、陽子の周囲を回っていないということです。電子を陽子回りに周回させるためには、今度は3次元空間(S^3上)に散在している無数の他者の位置を用意する必要があるのではないかと思われます。つまり、特定の他者の知覚球面ではなく、いろいろな場所に存在する無数の他者の知覚球面を自己側がイメージできるような自由度を考えなければならないということです。意識によるこの自由度の獲得が電子の周回の意味に対応させることができるのではないでしょうか。これは別の言い方をすれば、観測対象と観測者全員が一つの同一化した空間に投げ込まれている状態の認識と同じですから、結局は客観的時空のイメージを形作るための能動力として解釈することが可能です。つまり、陽子が客観的モノ概念の形成力だとすれば、その周囲を巡る電子の公転とは客観的時空概念の形成力ではないかということです。こうして、陽子の周囲を周回する電子の幾何学的描像が、客観的時空上の客観的モノという概念と一致してくることになります。
以上のような描像から、「全角運動量が時空の回転に対する保存量である」というΦさんの意見には納得が行きます。ヌース的には「全角運動量」とは、自転角運動量と軌道角運動量を足し合わせたものですから、結局のところψ7がψ*7のカタチを模索している意識の状態に当たります。ψ*7はψ8を観察する働きを持っています。ψ8はローレンツ変換対称性です。ここでΦさんが言われる「時空の回転に対する保存量」が意味するところは、ヌース的解釈からすると、結局のところ、時空の回転に対する観察力ということになります。ここで言っている「時空の回転」がローレンツ変換であることは言うまでもありません。
●結論
水素原子とは外在世界(モノと時空)の認識を形作っている概念のカタチ。すなわち、思形。
Φさんの物理数学的分析と齟齬をきたすところがあれば、ご意見下さい。
Φ=WHY?
2007年3月25日 @ 18:52
このブログに対する一連のレスはヌース理論会議室の方にアップしておきました。
http://noos.ne.jp/forum3/c-board.cgi?id=noos
夏羽
2007年3月25日 @ 19:56
ただひとつの理論、ただひとつの真実というものは存在しない。あるひとつの理論にヌースと言う名前をつけた、そこから展開される世界は「宗教」であり、宗教がもたらすものはセパレーション、分離、別離の思想。
ヌース理論において、精神即物質という関係を説きながらも、半田さんの言葉からは二つの分離した世界が感じられる。全体と部分という概念はそこには存在していない。地球=人間の精神と書きながらも、そこには精神が支配する地球という構図しか見えてこない。
ヌース理論は人間の精神を永遠に孤立したものとして描いている。すべてが人間の精神によって存在している、視点によってはそういう風に見えるかもしれない。しかし、人間の精神とは何かという考察において、半田さんは完全に他から人間の精神を切り離してしまった。
部分としての全体、全体としての部分という視点はヌース理論には存在していない。後ろと前、または平行した視点からは、永遠に広がる分離のみが観察できるだけにすぎない。
冥王星の影響で、人が持つ既存の神や宗教に対しての信条は、失われつつある。彼らはその前に地球上の宗教を彼らの手で破壊し、新しい宗教、新しい神、救い主を人類に与えようとしているという話を読んだ。
情報の信憑性は問わないとして、これからの神はその人に好みにあった、オーダーメイドの神、または理論が提供されてくるのかもしれない。この彼らとは誰?もちろん彼らは私たちの精神の中にいる、けれどもそれは半田さんが表現しているように単に、人間の精神がすべてを作り出す理論だけではなりたっていない。全体と部分との繋がり、そして部分としての全体である自分自身を考察してみる必要があるだろう。もちろん、私自身答えは靄の中、つかみどころもなく広がっているのを感じているだけだけれど。
半田さんは答えを出すことに急ぎすぎているのではないでしょうか。半田さんの感性で、オコットさんの言葉にあらゆる角度から、すべての状況を照らし合わせて挑戦して欲しい。高度な知識を持つものに対して劣等感を覚える必要も、崇拝する必要もない。優れた感性はどんなに高度な知性の前でも対等だ。
しかしながら、テレビやコンピューターの前で一日に3時間以上座っている人、携帯電話や車、飛行機とともに生活している人の精神が、高度な感性を持ちえるということはまずありえないだろう。肉体的世界の荒廃即精神の荒廃、半田さんが書かれたとおり。
半田さんが自らが得たチャネリング情報に屈しない、初めての人物になるだろうと、私は大いに夢を見ております。
kohsen
2007年3月26日 @ 00:03
Φさん、ここ1〜2年の物理学の研鑽がいよいよ実を結び始めたようですね。
正直、専門書を本格的に勉強しないと、追いついていけそうもありません。
この手の内容はもう一般書では難しいので、
この際、論文にチャレンジされたらどうでしょう。
夏羽さん
ありがとうございます。
以前にも、コメントをいただきましたね。
答えを出すことに急ぎすぎている、というより、答えが出せるものと出せないものを潔く区別しているといった方がいいのかもしれません。
夏羽
2007年3月26日 @ 16:20
「答えを出すことに急ぎすぎている、というより、答えが出せるものと出せないものを潔く区別しているといった方がいいのかもしれません。」
これはなんだか半田さんらしくない表現だな。
答えが出せるものなど存在しないし、答えが出せないものなど存在しない、こちらのほうがヌースっぽくないですか。とにかく、半田さんには注目しております。
Φ=WHY?
2007年3月26日 @ 16:55
コウセンさん、こんにちは。
ヌースもようやくこれまでの成果が実って、いよいよ大学を拠点とした活動が始まるようで、おめでとうございます。具体的にどんな活動が始まるのか、興味津々です。
私の方はいつも説明が行き届かず、わかりにくい文章ばかり書いてしまってすみません。私がふだん自分のブログやヌースの会議室などで使っている数式はごく基礎的なものが中心で、珍しいものではありません。正式な論文とは言えないまでも、いつかいろいろな人が興味を持つような、きちんとした文章を書き上げたいものです。まだまだ数学や物理学の分野には大変関心がありますので、今後もいろいろ調べていこうと思っております。私の拙い勉強が何らかの形で少しでもヌースのお役に立てれば幸いです。
kohsen
2007年3月28日 @ 00:06
以前「ヌース研究会」と銘打って行っていたコアな研究グループを作ってもいいですね。ヌース的方向(物質知を精神知に反転させるという意味)に興味のある専門家を集めて、いろいろな議論を行う場です。
ヌース理論をより分かり易くして、一般の人たちに解説していく方向に加えて、一方で、こうした作業が進めていければと思っています。
まだまだ先のことにはなりますが、そのときはΦさんも是非参加して下さい。
Φ=WHY?
2007年3月28日 @ 15:43
「ヌース研究会」ですか、いいですね。そのときはこちらこそよろしくお願い致します。
最近、『シリウス革命』p.75に掲載されていた「『位置の変換』が起こると、電子が方向性を変えてしまう」の言わんとするところの真意がようやくわかってきたような気がします。