地球の自転と北極星

 さて、いずれにせよ、1日、つまり地球の1自転とは何かが問題なのだ。単なる土塊の回転にまで堕落してしまったこの地球の自転という回転運動に、何とか精神の力能を見て取ることはできないものだろうか。日々繰り返される昼と夜の反復に、精神の息づかいを感じ取ることはできないものだろうか。

 OCOT情報によれば、宇宙に現れているすべての回転運動は精神活動の射影である。ヌース理論では、等化とは精神の働きとして一貫して定義されているものだ。だから、ヘリオセントリックな視座にしろ、ジオセントリックな視座にしろ、マクロコスモスに見られる諸惑星ならびに諸天体の回転運動の秩序は、精神に内在している内蔵秩序の機構がそのまま反映されたものとして解釈される必要がある。しかし、現在僕らが所持している物質的知性の在り方は、すべての回転を4次元時空という外延世界の同一性の中で思い描いてしまっている。一体何がそうさせてしまったのか——それは近代がもたらした地動説的な視座によるところが大きい。この視座は、認識主体である人間が存在させられている場所は地球表面であり、その場所が持つ有機的なネットワークの中において人間という生き物が成り立っているという事実を忘れさせてしまった。おそらく、地球表面と人間は分離できない一体性で結ばれている。地球という環境が人間を作ったのではなく、もともと、地球と人間とは同じものなのだ。

 人間の対象認識という意識的行為自体を空間の構造に内在されたものとして見た場合、地球表面を覆う空間は5次元の球面S^5となっているのではないかという話は以前、このブログにも書いた。身体にとっての前後と左右という方向が作る地球の閉曲面のことだ。左右が思形=ψ9、前後が感性=ψ10である。この考え方でいくと、この地球表面から放射状に広がる空間の方向性は、思形と感性の関係を十字架状の対化として観察できる位置を持っていることになる。僕が以前「トツカノツルギ」と呼んだものだ。天から大地深く突き刺されているこの剣が定質=ψ11である。

 定質の方向性をR^1(+)として見ると、定質が存在する空間は、S^5×R^1(+)として、R^6=6次元空間として考える必要がある。つまり、大雑把に言えば、地球を原点とした宇宙空間のタテ、ヨコ、高さは1、2、3次元ではなく、4、5、6次元的な構成を持っているということなのだ。そして、この4〜6次元は同時に、地上に立つ人間の身体における前後、左右、上下と同じ次元を有する空間となることは言うまでもない。天から頭頂、そして、頭頂から地球中心に向かって鉛直に降ろされている定質の力線。これは大地に人間が直立していることの意義でもあることだろう。この力線に人間の個体、すなわち自我を決定づける軸が存在していると考えるのはそれほど突飛な発想でもない。

 ここで、地球の自転とは何か、という話に戻ろう。ここでは詳しく説明はしないが、おそらく、地球の自転とはこの6次元空間に散種されている無数の個体性の軸を一本の軸に束ねるために設置された精神の現れではないかと考えられる。もしそうであれば、このような精神はヌースが観察精神と呼ぶものに一致する。ユークリッド次元でいうと、それは7次元方向に直立する線として存在している。つまり、地球の自転軸には6次元球面S^6が形作るすべての方向が7次元方向の線分として集約されているのではないか、ということである。この方向は観察子でいうと次元観察子ψ13に相当する。

 ψ13が地球の自転の本源力を意味しているのであれば、おそらく、このψ13は北極星と関係を持っている。北極星が僕ら人間の歴史的進化のすべてを管理しているということである。その意味では、北極星の別称である「天帝」や「妙見」は確かに観察精神のニックネームにふさわしくはある。

 北極星とは何ですか。
 対化の内面性(顕在化)をもたらすための力です。(シリウスファイル)