3月 10 2007
地球の自転と北極星
さて、いずれにせよ、1日、つまり地球の1自転とは何かが問題なのだ。単なる土塊の回転にまで堕落してしまったこの地球の自転という回転運動に、何とか精神の力能を見て取ることはできないものだろうか。日々繰り返される昼と夜の反復に、精神の息づかいを感じ取ることはできないものだろうか。
OCOT情報によれば、宇宙に現れているすべての回転運動は精神活動の射影である。ヌース理論では、等化とは精神の働きとして一貫して定義されているものだ。だから、ヘリオセントリックな視座にしろ、ジオセントリックな視座にしろ、マクロコスモスに見られる諸惑星ならびに諸天体の回転運動の秩序は、精神に内在している内蔵秩序の機構がそのまま反映されたものとして解釈される必要がある。しかし、現在僕らが所持している物質的知性の在り方は、すべての回転を4次元時空という外延世界の同一性の中で思い描いてしまっている。一体何がそうさせてしまったのか——それは近代がもたらした地動説的な視座によるところが大きい。この視座は、認識主体である人間が存在させられている場所は地球表面であり、その場所が持つ有機的なネットワークの中において人間という生き物が成り立っているという事実を忘れさせてしまった。おそらく、地球表面と人間は分離できない一体性で結ばれている。地球という環境が人間を作ったのではなく、もともと、地球と人間とは同じものなのだ。
人間の対象認識という意識的行為自体を空間の構造に内在されたものとして見た場合、地球表面を覆う空間は5次元の球面S^5となっているのではないかという話は以前、このブログにも書いた。身体にとっての前後と左右という方向が作る地球の閉曲面のことだ。左右が思形=ψ9、前後が感性=ψ10である。この考え方でいくと、この地球表面から放射状に広がる空間の方向性は、思形と感性の関係を十字架状の対化として観察できる位置を持っていることになる。僕が以前「トツカノツルギ」と呼んだものだ。天から大地深く突き刺されているこの剣が定質=ψ11である。
定質の方向性をR^1(+)として見ると、定質が存在する空間は、S^5×R^1(+)として、R^6=6次元空間として考える必要がある。つまり、大雑把に言えば、地球を原点とした宇宙空間のタテ、ヨコ、高さは1、2、3次元ではなく、4、5、6次元的な構成を持っているということなのだ。そして、この4〜6次元は同時に、地上に立つ人間の身体における前後、左右、上下と同じ次元を有する空間となることは言うまでもない。天から頭頂、そして、頭頂から地球中心に向かって鉛直に降ろされている定質の力線。これは大地に人間が直立していることの意義でもあることだろう。この力線に人間の個体、すなわち自我を決定づける軸が存在していると考えるのはそれほど突飛な発想でもない。
ここで、地球の自転とは何か、という話に戻ろう。ここでは詳しく説明はしないが、おそらく、地球の自転とはこの6次元空間に散種されている無数の個体性の軸を一本の軸に束ねるために設置された精神の現れではないかと考えられる。もしそうであれば、このような精神はヌースが観察精神と呼ぶものに一致する。ユークリッド次元でいうと、それは7次元方向に直立する線として存在している。つまり、地球の自転軸には6次元球面S^6が形作るすべての方向が7次元方向の線分として集約されているのではないか、ということである。この方向は観察子でいうと次元観察子ψ13に相当する。
ψ13が地球の自転の本源力を意味しているのであれば、おそらく、このψ13は北極星と関係を持っている。北極星が僕ら人間の歴史的進化のすべてを管理しているということである。その意味では、北極星の別称である「天帝」や「妙見」は確かに観察精神のニックネームにふさわしくはある。
北極星とは何ですか。
対化の内面性(顕在化)をもたらすための力です。(シリウスファイル)
るしえる
2007年3月15日 @ 22:19
このところのコラム、占星術のヌース理論的裏付けが、怒濤のごとく解読されているみたいで、涙が出そうになります。
ところで北極星=
「対化の内面性(顕在化)をもたらすための力です。」
地軸の傾きによって黄道面から23.4度傾いているわけですが、
今、手元のホロスコープをみてみると、インド占星術における牡羊座の始点と、西洋占星術における牡羊サインの始点=春分点の差であるところの、ayanamsha アヤナムサ が 23.32度となっています。これが、後、7度移動すると、名実ともに水瓶座時代となるわけですが、この春分点と星座のずれが、現在、地軸の傾きと同じに成りつつあるというのは、単なる偶然とは思えません。
「対化の内面性」をもたらす力のとしての北極星の役割が、現在、あるエポックを迎えつつあるとも考えられますね。
対化の顕在化をもたらしているのが北極星であるとするなら、精神世界でよくいう分離によって生まれた世界の現れ方を仕切っているのが、北極星=「天帝」であるということになるわけです。
しかし、これは地球における対化の表れを取り仕切っているだけで、火星とか金星における、北極星はまた別の星であるということになりますよね。横倒しの天王星の軸はいったい、どの星に向いているのでしょうか?
このことを考えてみると、地球からみた火星も金星、みんな地球であるというヌース理論も理解できてきます。
UFOが地球次元の宇宙で、金星の軌道までいって、何らかの回転同期をおこなって、金星の次元に入り込むというアダムスキーUFOの手続きも理解できるものになりますね。
とはいえ、月がある地球という惑星はやはり、太陽系の中でスペシャルな星なのでしょうか?
kohsen
2007年3月20日 @ 23:13
るしえるさん、どうも、
所用でしばらく博多を留守にしていました。
レス遅れて申し訳ありません。
マクロ宇宙に関してはまだまだ手探り段階の域を出てませんが、だいたいの目安は立ってきた感じがあります。
占星学との絡みで言えば、黄道面に対してどのような解釈が与えられるか、それがポイントになってくるのではないかと予想しています。
次元構造にはどもも4次元空間と7次元空間が連動するような仕組みがあるようです。おそらく、黄道面は7次元を一つの次元単位とするような層構造を持っていて、その多層性が惑星軌道として反映している様子が少しですが垣間見えてきました。7次元の単位はヌースでは大系観察子と呼ばれる概念に当たりますが、これが次元観察子に入れ子的に投影を行うことにより、占星術に見られるような諸惑星の霊的役割というものが発生してきているように思われます。
いずれ、各惑星の公転周期、さらには、内合や外合の意味等など、より具体的な分析が可能になっていくのではないかと思います。あとは、黄道12宮を構成する恒星群と他の恒星群との差異をどのような論理で明確化するかですね。OCOT情報は一応参考にしますが、空間構造から何とか導けないものかともがいているところです。
>とはいえ、月がある地球という惑星はやはり、太陽系の中でスペシャルな星なのでしょうか?
全くスペシャルなものと考えていいと思います。
なぜ、第三軌道に地球が位置し、その衛星として月が軌道を持っているかはまだ定かではありませんが、働きとしては、地球-月は太陽系全体の縮約になっていると思います。つまり、さっき言った7次元の次元単位を地球-月間の空間が持っているということです。太陽系を意味する大系観察子Ω全体は次元観察子ψ全体に反映されます。次元観察子全体は大系のΩ1-2に集約されます。その意味で、地球-月は精神システム全体が転倒したところに生じる、付帯質のシステム全体を統括しているということが言えそうです。このへんはカバラのツィムツーム(器の収縮)と似ていますね。
Φ=WHY?
2007年3月21日 @ 23:58
ヌース的に言えば、地球のように、「鉄」~「ニッケル」を最奥核(奥の院)にもつ天体における(人間の?)意識の現場は、結局、第4主殻(=N殻)の第3副殻(=3d軌道)における第3磁軸周り(m=0)の軌道と第4磁軸周り(m=+1)の軌道間の遷移現場にあるということになるかもしれませんね。
夏羽
2007年3月30日 @ 19:44
「単なる土塊の回転にまで堕落してしまったこの地球の自転という回転運動に、何とか精神の力能を見て取ることはできないものだろうか。」
私には地球の回転が単なる土塊の回転にまで堕落してしまったようには見えないけれども、人それぞれ違った視点、違った感性を持っていて当然だろう。
しかし、たとえ理論的に宇宙に現れているすべての回転運動が精神運動の射影であると説いてみたところで、半田さんにとって地球の回転が単なる土塊の回転であるという事実はなんら変わらないだろう。半田さんの感性には地球の回転が、そして精神活動が堕落してしまった回転運動に過ぎないというふうに写っているのだから。
たとえばひとつの木像を見る時、それが有名な芸術家によって彫られたものであるという事実によってしか、その木像を観賞できない人のように。
もし人が地球の回転が精神、意識によるものだという概念を持っていなかったとしても、地球の存在、回転、宇宙における位地、自然の神秘と美しさを感じることを、見ることができるならば、その人の精神は、地球と宇宙を理解している。
地球、自然、そして空に輝く星を見ること、感じること、発見することが、精神の力能を見て取るということではないだろうか。
「おそらく、地球表面と人間は分離できない一体性で結ばれている。地球という環境が人間を作ったのではなく、もともと、地球と人間とは同じものなのだ。」
地球という全体を作る部分はすべて独立した個性、自由意志を持った全体であり、決して同じものなどではない、という視点も存在する。
人間という三人称が他との分離、限界を作り出しているように思われる。地球表面と人間を結びつけたとき、遥かに宇宙から地球表面と人間を孤立させてしまったのではないだろうか。
人間という遺伝子操作によって作られた生物、人間というゲームの駒、またはプレーヤー、人間と言う遥かなデザインの一部としての創造物、創造者、人間という部分、人間という全体。
人間という言葉の後ろには、私(または僕)という一人称が存在し、すべての精神的活動、意識的変化はこの私から発生し、この私の精神、意識は人間であるとか、動物であるとか、植物であるとか、地球、宇宙であるとか、そういう限界と分離を超えたところに存在している。永遠に切り離すことができない創造者と創造物の運命のもとに、エネルギーのもとに、様々な創造のゲームが展開されているのではないだろうか。
ニューエージがワンネスという説明不足の、ラビリンスをはやらせてしまった。
これは私の単なる想像に過ぎないけれども、たとえば人間の体の構造を考えたとき、すべての部分は全体と繋がっており、全体を作るために働いているが、それぞれの部分の役割は決して同じではない。全体を作り出す部分はそれぞれ違った個性を持っており、決して同じものではない。またそれぞれの部分はその部分として独立したひとつの世界、全体を持っている。
人間と地球は同じような関係を持っており、また地球も部分としての役割、全体としての独立した自由意志を持っており、ワンネスとは決してすべてが同じという意味ではなく、すべての部分は異なった使命、異なった意識を形作る全体であり、それが相互に関係しあって遥かなひとつの私を創り上げ、そしてその私はすべてのエネルギーに存在する-というまあ、妄想です。
半田さんは多分自然というデザインの美しさを見たことがないんでしょうね。
Tu sera un jour guidé par ayahuasca, j'espère que ça sera avant qu'il pleuve.
ジオセントリックモデル
2009年3月24日 @ 08:03
誰でも自由に使える画像掲示板です。SNSやチャットなどほとんどの機能が登録不要で書き込みできます。
http://gm.bpa.nu