5次元から見たボクとパパ

Cave_compass_9 思形の最も基本的な役割は、虚空間(奥行きが見えないという意味)として働いている前後方向に、実空間(長さが見えるということ)を設定し、それを観察することである。大人なら誰でも、奥行き方向を横から見たら幅のような長さが見えているに違いないという確信を持っていることだろう。ここで「大人なら」と書いたのは、僕が幼児の頃にはこんな確信は微塵もなかったのをよく覚えているからだ。月や太陽が遠いところにあるとは考えもしなかったし、左や右という方向を区別するのにもすごく苦労した記憶がある。幼稚園児ぐらいまでに見られる鏡文字等も、彼、彼女らにまだ左右という方向の認識の働きがよく生まれていないことを如実に物語っている。左右という方向があり、そこから見ると奥行きは幅になる——こうした確信を与えている力が思形だと考えていい。おそらくこの確信が芽生えてくるのは7〜8才頃だろう。思形の登場によって、主体は奥行きに延長を概念化することができ、モノの厚みや、主客の分離や、自他の分離を意識に明確に形作ることができてくるわけだ。

 思形になぜこのような働きが出てくるかは、上に示したケイブコンパスでそのあらましを簡単に示すことができる。無意識の発達がψ9段階に入ると、精神はコンパスが示しているように、次元観察子ψ1とψ*1、ψ3とψ*3、ψ5とψ*5、ψ7とψ*7という奇数系同士(人間の外面同士)の観察子を、それぞれ対化として見る視座を持つことができるようになる。つまり、ψ1とψ*1の場合であれば、モノの見え姿(表相)のオモテとウラの存在を知ることによってモノの横からの視点が自然に主体に内在化してくることが可能になるということだ。同様に、モノの背景の表とウラ(表面と表面*=ψ3とψ*3)の存在を知ることよって、モノの外部iにある空間を横から見る視点が内在化され、自分の知覚球面と他者の知覚球面の存在(ψ5とψ*5)を並列的なものと見る視点によって、自他を横から見ている視点が内在化されてくる。これらの諸関係はψ7〜ψ8までの状態では獲得することができない。ψ7〜ψ8までの段階はあくまでも身体における前後の関係、つまり、知覚世界と知覚外世界の空間関係のみであり、これらの空間には他者を入り込ませる余地がないのである。その意味で、ψ7〜8の空間は、精神分析のいうただただ裸形の主体が孤高に存在する現実界の空間と言っていいのかもしれない。当然のことながら、この段階では、人間の自省的な意識というものは生まれてはいない。ただただ世界のみが開示するエーテル的世界である。

 ψ9=思形とは、その意味で、ψ7〜8の段階まででは見えなかった関係を、他者の外面をミラーリングし、その像を自らの外面との交換関係を結ぶことによって形作られていくものとなる。この外面と外面*のミラーリングの共有によって、同時に内面と内面*側も同一化を起こすことになる。それは、思形の内面と呼ばれる領域で、ψ2とψ*2(一つのモノの内部)、ψ4とψ*4(一つのモノの外部)、ψ6とψ*6(無数のモノの外部、もしくは一人の他者とわたし)、ψ8とψ8(わたしを含めた無数の他者)、それぞれが占める空間の同一化である。何のことはない、これらは僕らが普通に所持している外界認識のことである。

 (人間が意識する)モノとは思形の内面にあるものです——シリウスファイル

 人間にとっては思形は無意識として働き、外界認識は無意識構造の発展プロセスの結果として、その内面に現れてくるということだ。そこでは、わたしとは無関係にモノの世界が広がっているかのように見えてしまう。モノ=対象という概念の発生。この対象概念において、現象世界は個別のコンテナに詰め込まれ、あたかも別々のものとしてそれぞれの自己同一性を与えられる。灰皿は灰皿である。ライターはライターである。机は机である。このAはAであるという同一律。理性が持ったまさに理〈コトワリ〉の儀式。世界の事物における排他的離接はこのようにして誕生してくるというわけだ。そして、見逃してならないのは、その背後を一つの精神として流れるように統合しているゼロ記号としての思形の覆いだ。こうした無意識の風景が象徴界(言葉の世界)への参入を示唆していることは想像に難くない。

 〈補足〉ケイブコンパスの目盛りを見ても分かるように、この意識はだいたい7〜8才から13〜14才ぐらいまでで確立することになる。
 あれ?ママが後回しになっちゃった。次回はママの番ね。