モノに潜む知性

350pxearthapollo17_1実にややこしい話をして申し訳なく思っている。こんな話をしているのには実は訳がある。それはモノとは僕たちの眼差しが一つになるところにしか生まれ得ないということを言いたかったからだ。ヌースがいつも「物質は倫理的な力によって創造された」と言ってるのはその意味だと思ってほしい。

 通常の実在概念では、人間がいなくてもモノや光があると考える。モノは人間が現れる前から無条件に「そこ」にあって、モノに当たった光がたまたま人間という生物の網膜組織を刺激し、そこに視像が結ばれるという何とも平坦な説明の様式。こうした説明はすべて時空上での出来事の羅列にすぎないことが分かるだろう。これは、例によって、世界を「後」の回転によって生まれている空間上に存在しているものと思い込んでいる物質知性の物の見方だ。現象学が明らかにしているように、こうした非人称的な場所に「生きられる空間」は存在してはいない。生きられる空間、生きられる時間が存在するのは1人称的空間としての「前」の世界である。そして、その「前」は時空上では皮肉なことに点の内部に隠蔽された場所としてしか表すことができない。その隠蔽された「前」に始まる「前後」や「左右」や「上下」という身体固有の空間を現代科学は想像的自我の温床となる「後」のみの空間に閉じ込めて、小難しく内部空間と呼んでいるだけのことなのだ。この「後」の空間の呪縛から解かれれば、僕らの知性はモノそのものの中に内側から入っていくことができる。これがヌース理論が主張するヌース(創造的知性)の発振の有り様である。

 まだまだ粗雑な説明であることは百も承知だが、君にも世界のからくりが少しは見えてきたのではないだろうか。素粒子とは僕らの実存のカタチが組織化されている場のことである。それを構造主義者風に無意識構造と呼んでも構わない。ここにおいて、モノ概念は陽子に、時空概念は中性子に、そして、主体概念は電子に、自我概念はニュートリノに変わる。そして、これらは自他(対化)の関係においてすべて双子として存在させられることになる。そして、何よりも重要なことは、モノがこうした素粒子によってできているように見えている、という事実である。

 モノが目の前にある、ということ。それは自他という関係を超克した超越論的な知性の力が存在するということを意味する。モノがあるから僕らの眼差しが「そこ」で統一されるのではなく、眼差しの統一があるからこそ、「そこ」でモノが作り出されていると考えなければならない。その意味で眼差しの統一とはモノそのものの生成空間への侵入口となっていると言える。人間が間主観的な態度や認識の中に生きる価値を見い出すのは、その方向性こそが宇宙の生成力にダイレクトに関わっているからなのだ。国家主義や人間主義、生命主義的な謂れの不確かな「道徳」として善を語るのではなく、存在そのものの「倫理」として善を語ること。ヌースはこのような善のみを善悪の彼岸と呼びたい。

 自他の意識の統一としての物質の始まり。そのイメージを持ってモノたちの姿をまじまじと眺めてみるといい。眼差しの統一の世界に広がる空間には想像を絶するような奥行きがあることが分かるはずだ。自然界には水素に始まってウランまで92段階の元素が存在している。それらの元素を形作っている概念というものに想いを馳せてみるのだ。その概念を形成した知性が僕らが「愛」と呼ぶものの彼方に確実に存在している。僕ら人間がこれから進むべき道は、その知性へと至る道だ。

 モノとは君と僕の眼差しが一つになるところにしか生まれない——再度、その眼差しを持って地球=大地を眺めてみるといい。地球は地球上に生きるすべての人間の眼差しが否応無しに一点で統一されている唯一の場所だ。世界中の誰もが地球を見つめるとき、その眼差しは地球の重心で一致する。物質的には地球の中心部には鉄があり、表面近くの地殻部にはケイ素やアルミニウムがあり、界面には水があり、それを包むように大気圏には窒素と酸素の皮膜がある。こうした地球の姿を現代科学は宇宙空間を漂うチリが寄り集まってできた土塊ぐらいにしか見ていない。馬鹿げているとは思わないか。地球には眼差しの統一に始まる創造空間内部の生成秩序がそれこそ年輪のように覆っている。地球という球体の中で躍動する幾多の精霊たちの姿が見えて来たとき、月の正体も自然に分かるだろう。そして、そのとき、僕らの意識はほんとうの太陽系世界へと開かれる。夢見るヌースの上昇の旅がここに始まるのだ。乞うご期待!!