消えた「前」を探せ!! 2

 消失した「前」。時空という概念が「後」という方向の回転により概念化されている広がりであるとしたら、当然、この「前」方向の回転により生まれている空間は時空内では記述することはできない。時空内には存在しないとすれば、当然、そこは過去でも未来でもないし、遠くでも近くでもない場所ということになる。そういう場所のことを僕らは何と呼べばいいのだろうか——おそらく、呼び名として最も適しているのは「今、ここ、ほんとうのわたし」である。つまり、「前」とは光速度に達しているものだけに見える世界なのである。

 「今、ここ、ほんとうのわたし」としての「前」には、言うまでもなく、ほんとうの現実がある。事実、知覚野は前を中心に展開し、記憶は前で集積されているような感覚を受ける。僕らはコウモリさながら後の空間に満たされた意識の波動を前に照射し、主体であった場所を客体として誤認する。この想像的な「後」を代表しているものは何と言っても「顔」だろう。「前」が「顔」を見るためには鏡を使うしかない。そして、その顔に登録されるのが名だ。この顔と名の誕生によって想像的自我の足場が固まる。何年何月何日、わたし半田広宣はどこどこで何々をした。自我は言葉が好きである。自我が言葉を弄ぶほど、「今、ここ、ほんとうのわたし」はバラバラにされていく。現実的なものから想像的なものへの逸脱。次元転換装置としての鏡と言語。主体(前)が自分の顔(後)と名を獲得することは幾何学的には4次元世界での転倒の事件なのである。

 この転倒は空間的に言えば3次元的なマクロ方向とミクロ方向の反転をも合わせ持っている。嘘だと思うならば右手に手袋をはめて鏡に映してみるといい。鏡の中ではその右手は左手そっくりに見えていることだろう。当然のことながら、そこでは手袋も左手用にすり替わっている。経験上誰でも知っていることだが、右手用の手袋を左手にフィットさせるためには手袋を裏返すしかない。手袋の界面の裏返り。それは3次元の内部性と外部性の反転のことにほかならない。鏡映変換にはこのように人間の身体における右と左という対峙性に4次元の相対的な反転関係が反映されていることが暗示されている。両者を3次元空間上で等化する(対称性を持つようにする)ことは不可能である。

 全面が「後」に覆われてしまったこの世界に「前」を再び呼び戻すこと。そして、わたしとあなたとの鏡映変換を実行可能なものにさせること。これがヌース的アセンションの入口である。分かりにくい表現かもしれないが、それは言うなれば「死者の世界を地上に降臨させること」に等しい。死とは自分の顔や「後」が消えることだと考えてみよう。鏡像世界としての時空概念、そしてその核となっている自我が消え失せたときに自我を見つめていた本当の主体としての世界が露になることだろう。。そこには文字通り人間(鏡像)はひとりもいない。ヌースのいうヘッドレスボディとはこうした無人の大地に立ち上がる「蘇る死者たち」の身体のことでもある。

 死とは位置の反転のことです。
 死とは人間の内面の意識が崩壊することです。(シリウスファイル)