天と点

米国出版が決まったということで、「人類が神を見る日」を7〜8年ぶりに読み返している。この本のキモは「無限遠点にいるわたし」のところなのだが、どうもその描像が弱い。英訳本では少し補足が必要かもしれない。

 僕らの魂を天上へと帰還させるための第一歩がヌースでいう「位置の交換」という作業である。これは自他においてモノの手前に感覚化している自身の位置をモノの背後側の無限遠の位置へと移せという意味だ。では、なぜ、モノの手前側にいる「ボク」を消去する必要があるのだろうか?このボクは文字通りボクが自意識を持って以来、常に世界の中心であり続けてきた。世界中に散在するどのような「ボク」もおそらくこの中心から世界を観察し、周囲に展開される風景の中で思い思いの人生を歩んで来たはずだ。しかし、この位置にボクが居座っている限り、かの雷鳴は轟かない。真の恋人たちに打ち降ろされるあの雷光の一撃は中心と周縁の反転によってこそもたらされるのだ。そう、交換不能とされたものの交換、すなわち主体の交換を達成するために——。

 3次元認識の中では対象(figure)の背後側には背景(field)としての空間の延長性が想像されている。その背景は対象の認識においてはかかせないものだ。地と図の関係でも明らかなように、僕らはこの背景としての「不在」をベースにすることによって、対象としての「在」を認知している。だから、普通はこの不在としての場所、すなわち空間は客体とは呼ばれない。

 さてこの対象の背景として在る空間はどこまで続いているのだろうか?天文学者たちは今や数十億光年の彼方に銀河団やクゥエーサーを発見しているが、当然それらの場所にも背景としてしかと空間が映り込んでいる。事象の地平線というものがあるために観測は不可能とされているが、深宇宙の底なるものは物理的には特異点と呼ばれる場所にあたる。これはこの宇宙における実質的な無限遠の位置であると言っていいだろう。そこは同時に約137億年前の宇宙の始源の姿でもあるが、大事な事は、それが観測者を中心とした天球面そのものでもあるということだ。

 さて、近代的思考はいとも簡単に観測者の位置を空間上の一点と見なすが、観測者であることの絶対条件として、観測者という点はそれが観測位置である限り、この特異点としての天球面を必ず具備していなければならないということが分かるはずだ。なぜなら、世界が自己の前に開示しているということは周囲に天球面が張られていることと同じ意味を持つからである。これは言い換えれば、天球面が観測者の認識位置を規定しているということでもある。ヌースで観測者の位置が無限遠点にあるという意味はおおよそそのような意味と考えてもらっていい。観測の位置が単なる点ならば観測者は単なる物体と何も変わりはない。

 こうした宇宙大の自己の位置が地上へと引き降ろされる契機は他者からの眼差しによってもたらされる。周囲に浮かぶOs-irisの機能としてのの他者の目。その眼差しによって宇宙大の自己、すなわち光は物質的な肉眼へと収縮を余儀なくされるのだ。実存の位置としての「天」が、地上世界の「点」へと引きずり降ろされる事件である。Os-irisの瞳孔とは水の鏡でもある。他者の目に映った自分の目を想像するといい。その目はポツンと3次元空間の中を彷徨っている。これこそが水の受難でなくて何であろう。水に沈められた魂は自らを肉眼の内部、頭の内部、肉体の内部にいるものと信じ込み、その存在(意識)の起源は、その内部性を辿りにたどって脳の電気的作用にまで還元される。こうして、モノの手前に自分の住処があるという信仰は魂を去勢された科学信仰によって徹底して強固なものにされていく。この魂の閉じ込めの圧政は強力だ。

 対象と観測者を結ぶ線、その本来の姿は3次元空間上の1/∞と∞を結ぶものだ。こうした線分は数学的には4次元方向の線分として解釈されることになる。その意味で観測者と対象との距離は4次元の距離とならざるを得ない。つまり、モノとわたしは4次元空間として隔てられているのだ。もちろん、相対論はこのことを語っている。わたしから広がる空間は3次元空間ではなく時空なのだから。しかし、問題は、モノの手前の空間とモノの背後の空間の区別がつけられていないことだ。なぜそのような暴挙が平気でなされているのだろうか。それは観測者の位置を押し並べて「点」と見なしていることによる。自他それぞれの知覚においては、1/∞と∞は全く逆の関係にあることを僕らは知らなくてはならない。光は双子なのである。

 そろそろ君の目にもこの宇宙挟んで対峙する自他という4次元空間の反転関係が見えてきた頃だろうか?所詮、時空なんてものは君一人だけの世界なのだ。