11月 1 2006
反自然主義
現在、ニューエイジ系の雑誌「スターピープル・オブ・アース」で毎号、毎号、駄文を掲載させていただいているのだが、また、原稿の締め切り期日が迫ってきている。そろそろ何か書かにゃ。今回の特集はどうやら「環境問題について考える」ということらしい。。う〜ん、困った。はっきり言ってチョー苦手な分野だ。というのも僕自身、正直言って、普通の意味での環境問題にはとても関心があるとは言えないからだ。フリエネ研究やコスモロジー研究は問題意識からというより、ヌースを通しての自分の無意識的な欲望から突き上げてくるものであって、とりわけ現在の地球環境に特別な危惧を抱いているわけでもない。はてはて、僕の環境保全に関する問題意識はどの程度のものなのだろうか——ということで私生活をチェック!!
合成洗剤は使わない。できるだけ有機野菜を食べる(このへんはウチの奥さんの主義だな)。ファストフードにはほとんど行かない。車はあまり運転しない。レジャーは極力控える(これは単に出不精なだけ)。おお、我ながらいい線行っているじゃないか。理由はどうあれ、結果的には極めて省エネ人間のようだ。しかし。。。出張では飛行機に乗るし、トイレット・ペーパーではパンツに糞がつかないように執念深く8回ほどケツを拭くし、タバコはスパスパ吸うし、会社の製品のパッケージには致し方なく石油製品を使用するときもある。。。まぁ、完全とは行かない。今のような文明社会で生きて行く限りどのみち誰もが自然破壊の共犯者となっている。その意味で言えば、資本主義社会の中で「地球環境を守ろう」というのはほとんどが自己欺瞞だろう。それこそ本気で地球環境を守りたいのなら、資本主義やテクノロジーと今すぐに縁を切るしかない。便利な電気製品、電子機器とすべてオサラバして、山奥に引っ込み、ブッシュマンさながら自給自足の生活を営む。これが一番。
しかし、僕はどうもディープ・エコロジーというのが苦手なんだな。ディープエコロジーの思想背景には自然=善、人間=悪という短絡的な図式がある。生命中心主義を錦の美旗のごとく掲げ、人間中心主義に断固反対するわけだ。今や階級闘争はホモサピエンスの枠を脱領土化し、イルカやクジラ、さらには犬や猫にまで拡大してしまった。全世界の動植物よ、団結せよ!!人間中心主義の圧政にレジスタンスを!!地球上の全動植物に変わってこのわたしがお仕置きよ!!死者の名を騙る権力だけじゃ飽き足らず、動植物の霊までもが生者たちの生のために動員される。
たとえ自然環境が守られたとしても、人間の変化への欲望が完全に阻害されるようであれば、その方向は間違っている。自然の美名のもとに「人間」があまりに軽視されていること。それが問題の本質なのだ。それは悪しき人間主義と同根だ。自然主義も科学主義もヒューマニズムも人間という現象の位置づけ自体に問題があるのだ。ヌース的に言えば、人間の本来性とは存在の結節である。人間なくして世界も宇宙もない。人工と自然、テクノロジーとエコロジーという安易な二項対立で考えるのではなく、自然と反自然、世界と創造にまで人間精神の自由度を拡張して思考すること。反自然者、再生者としての人間観が再興されなければ環境問題の解決は決してあり得ないのではないかと思う。
ヌース理論の自然観は自然即人間なのであるからいたってシンプルである。しかし、これは単なる伝統的なアニミズムの類いではない。美しい野鳥が姿を消して行くのは、美しい野鳥のような精神の羽ばたきが人間の中から消えて行っているのであり、神々しい森が枯れ果てて行っているのは、樹木のような神々しい精神が死滅していっているのであり、ライオンや虎などの猛々しい動物たちが絶滅していっているのは、ライオンや虎のような猛々しい精神が消滅していっているからに他ならない。何のことはない。大自然に根差した生命に宿る霊性の数々は、僕ら自身の霊性の映し絵に他ならないということだ。死滅していっているものは僕らの不可視の魂の力の方なのである。
おっと、スタピーの原稿のネタがなくなってしまう。。。なにはともあれ、環境問題は物質の問題などではなく霊性の問題として語られて初めて意味を持つ。「地球にやさしい云々」というマクロな標語を唱える以前に、隣人に対して「おはよう」の一言でも発することの方がよっぽど優先事だろう。精神が満たされていけばモノやカネへの執着は自然と消えて行く。本当の問題はそうした新種の欲望の指向性をいかにして作り出すかにある。
夏羽
2006年12月4日 @ 22:52
広宣さん、初めまして。夏羽と申します。
広宣さんは「ディープ・エコロジーというのが苦手」だということですが、今は「苦手なものの中に答えが潜んでいる。」時代だと私は思うんです。私にとっての答えはヌースの中かな(^^)。
日常生活が省エネでも、飛行機で帳消し、どころか大いにエネルギーを使う人間になる、まさにその通りでしょうね。また間接的に消費されているエネルギーというものに、人はほとんど気づかない。ハンバーガーひとつ=二分の一トンの木材収穫と以下の頁にかかれています。http://www.american.edu/projects/mandala/TED/costbeef.htm
木を見たことのない人には信じがたいかもしれませんが、この数字は本当ですよ。
最近私の周りではマクドナルドを敵視する人が増えてきていますが、実際にはヨーロッパは家畜飼料の70パーセントを輸入している(特にブラジルから)、日本にいたっては食糧のほとんどを輸入に頼っていますよね。熱帯雨林の消滅に関してはマクドもどこもみんな肩を並べているわけなのに、自分のことは棚に上げてマクド(アメリカ?)を責めているわけです。また牛、乳産業に費やされる化石エネルギーの量は半端じゃない。養鶏、魚の養殖、小さくなるほど一定収穫量に対するエネルギー使用率は高くなるらしいです。
人間は工場の煙を見るといやな顔をするくせに、華やかに並べられた、デパートの売り場ではそんなことは記憶の隅にもよぎらない。
おっと、広宣さんの苦手な分野、もうやめておきましょう。それこそ広宣さんのおっしゃるとおり、「資本主義社会の中で「地球環境を守ろう」というのはほとんどが自己欺瞞だろう。それこそ本気で地球環境を守りたいのなら、資本主義やテクノロジーと今すぐに縁を切るしかない。便利な電気製品、電子機器とすべてオサラバして、山奥に引っ込み、ブッシュマンさながら自給自足の生活を営む。これが一番。」ですよね。そしてブッシュマンさながらの自給自足の生活を営む、ここまでに至った道をすべて破壊し、新しい創造、変化への道を見つけ出す、のが今のところ私の夢です。2012年(または2013)に向かう今はそんな破壊と再生の時期なんだと思っています。
「ヌース理論の自然観は自然即人間なのであるからいたってシンプルである。しかし、これは単なる伝統的なアニミズムの類いではない。」
私たちの目に映る三次元が意識の投影、鏡の中、無、等のことは昔から様々な賢者が、最近ではチャネラーを通じて異次元意識か迷い霊か(わかんないけど)そういう方々が繰り返し語っておられるわけですが、ヌース理論は少し違うのでしょうか?ちょっとこの文章の意味がわかりません。
とにかく自然という形に投影された人間の意識、もしくは人間という形に投影された自然の意識の創造の美しさ、すばらしさに感動します。
話は変わりますが私は最近折り紙に夢中です。先日はペガサスつくり(設計図は数十ページに至る)に半日以上かけてしまいました。何故かいつも同じところで間違ってしまい、もう一度やり直し。けれども二回目には様々なことが理解できていて、最初気づかなかったことが色々わかってくる。何度も何度もみんな壊してやりなおしているうちに、何とか完成に至る!
存在って折り紙に似てないかな、って思うんですけど。(稚拙な考えで申し訳ありません。)山折りと谷折りという単純な作業の繰り返し。ペーパークラフトのように切ったり貼ったりはしないんです。私たちの目に映る存在(の写し?)っていうのはマクロとミクロの方向に永遠に広がり続ける山折りと谷折りの繰り返しじゃないかな、って。基本は単純でもそこから広宣さんが語ってらっしゃるような複雑な科学、物理、数学が生まれ、意識はとてつもなく雄大な世界を折っていくことができる。
私たちに今必要なのは、破壊する勇気と責任感なのではないかと思うんです。
私が作ったペガサスにはモデルがあり、そこへたどる道はひとつしかなかったわけですが、私たちの意識、動物たちの意識、細胞の意識が創造するものにはモデルもルールもない。私たちの気に入るものを創造するために、ある時期、間違った折りは取り除き、破壊し、新しく折りなおす必要性があるでしょう。すべてを壊す必要がある場合、または部分だけ壊せば大丈夫な場合。大きな創造の目的の為に私たちは学び、道を探求し続けている、という見方も、ある視点から見ればあるのではないでしょうか。そしてひとつの目的が達成されれば、また新たな目的へと進み、変化してゆくのでしょう。
そういった、大げさに言えば学びと言えるんだろうけれども、平たく言えば勝ち負けのない「ゲーム」ですよね。そこでは自分が今何を造りたいのかをまず明らかにしないと、道は定まらないし、今の状態に満足していないのに、いつまでも迷った道にしがみついていてはつまらない、いさぎよくない。この二つ、私たちが忘れがちなことだと思うんです。自分が何を求めているか、イメージを持っている人は少ない。
もし広宣さんが今の状態(すべての次元における)に満足していらっしゃるのならそれでよいけれども、変化を望むなら、まずすべての山折りと谷折りを、すべての気に入らない道を破壊してから、新たにゲームに挑むほうが効率的かも知れない。その時期というのは当然様々でしょうが。ほんの少しうまくいかない、気に入らないからと言ってやり直してばかりでは成長がないし、しつこく粘りすぎてもエネルギーの無駄使い。羊の群れから離れられない三次元の現実は、イコール意識の状態ですよね。すべてが何かの犠牲の上に成り立っているという(とってもプリミティブなことだけど、犠牲=共存ではないということを断っておきます。植物連鎖は共存、ライオンが草食動物を食べるのは犠牲ではない。人間が肉を食べ、動物を実験に使うのは、どういう高尚な言い訳をしたところで、共存とはいえない。)今の文明社会において、それをひっくり返す、ブッシュマンの生活をするということは、大きな勇気と、責任感、エネルギーが必要だと思います。原始時代なら簡単にできることでも今だから価値があるのかも。それがオコットさんの言っていた科学無しに覚醒はないということにひょっとして繋がっているのかな?
少しでも覚醒した人は、ただそれができない言い訳を、あれこれと捜し続け、破壊することの怖さを紛らわしてくれる、様々な教えを求めているわけでしょう。
もちろん、その構造を科学する、研究するのも興味深いと思います。そこから広宣さんは次の一手を模索していらっしゃるのでしょうか。
現代の問題はたかだか百数十年で作られたテクノロジー、数千年にしか及ばない、文化、習慣が人間のすべての性であると勘違いしていることでしょうね。それで人間の方向性、可能性に限界を作っちゃっている。人間は自然を破壊するために存在する、何て信じている人が少なくないどころか、ほとんどなんだなあ。またそれらの責任をエイリアン、または一部の人種に負わせよう、っていうのもどうだろうかと思うけど。
今、精神または意識と三次元世界を切り離して考えるようなところが、ニューエージ、精神世界に見られるように思うんですが、三次元世界が意識の投影だとすると、単純に三次元世界は精神、意識そのものだともいえるわけで、精神、意識だけに重点を置くというのはとてもバランスが悪いように思うし(その反対もまた)、行動したくない怠慢な意識の言い訳っぽくも聞こえるなあ。三次元が動くとき、意識が動いているっていうことを忘れてはいけない。次元の数に限界があるとはとうてい思えないしね。
私にとっての破壊と再生は、今のところこんな感じかな。
広宣さんがうまく描写して下さった、「今のような文明社会で生きて行く限りどのみち誰もが自然破壊の共犯者となっている。」にいたるすべての折り、道を破壊し(文明社会や自然を破壊するって意味じゃないので、念のため)、そして再生。正直な話、私は何を造りたいのか、まだ定まらないところです・・・(汗)。簡単な問題ではないですよね。じっくり考える必要がある。私なりに望む、しめっぽいものはたくさんあることはあるけれど、鼻先で笑われそうなんで書きません(^^)。
とにかく、何度も何度も破壊と再生を繰り返し、造り上げられてきたであろうこのゲームは、私にとって大いに興味深く、美しく、すばらしいものです。私はこのゲームをやめてアセンションしたいとは思いませんね。まず自分が満足のいくものを作り上げてから、他へ目をやりたい。とはいえ、アセンションの意味がどうしてもわからないんですけど。
以前、アイルランド人の某、陰謀論家のブログにコメントを書いたとき、私は彼の本をすべて読んでいない(一冊じっくり読んだんですけど・・)、と言って怒られましたが、広宣さんはそんな野暮なこと言いませんよね。
「シリウス革命」を友人から頂き、読み始めましたが半分で挫折してしまいました・・・。そのうちもう一度はじめから読み返そうと思っております。
長々と失礼いたしました。