新商品のコピー

 今日はヌーススピリッツの姉妹品として11月に発売する「ヌースアイ(noos i)」のキャッチコピー案が代理店の方から送られてきて、スタッフ全員でどれがいいか検討した。実を言うと、わたしはコピーにうるさい。コビーを考えて、いかしたコピーができるのは嬉しいが、コビーを考えているときの自分の脳みその在り方にはいささか抵抗がある。コビーを考えるのは楽しいが、そういう自分がイヤでもあるのだ。ヌース理論の中でも、わたしはコピー感覚を存分に楽しむが、同時に嫌悪もしている。「NC」「ヌルポッド」「アクアフラット」。これが理論用語か?まるでPC業界の商品名みたいではないか。

 昭和40年代ぐらいまでコピーはまだ健全だった。「スカッとさわやか、コカ・コーラ」「初恋の味・カルピス」「男は黙って、サッポロビール」。この頃はまだ、コピーという言葉には「複写機」の意味しかなく、いわゆる宣伝文としてのコピーはキャッチフレーズと呼ばれていた。コピーという言葉が一躍広まったのは、あの糸井重里が出てきてからだ。

「じぶん、新発見。」「不思議、大好き。」「おいしい生活。」糸井重里が西武百貨店で仕掛けた言葉のマジックは、当時のわたしにも鮮烈だった。たった数文字の言葉、それも一体何がいいのか分からない数行の文字の羅列が、企業のイメージをまるで魔法のように変えて行く。別に説明をしているわけでもない。理念を述べているわけでもない。論理的な説明は何一つなく、何の脈絡もない言葉の数片がまるで詩のような力を持って、人々の無意識の中に影響を及ぼして行く。

 糸井重里に代表される当時のコピーライターが作り出した言語センスはおそらく未だに大きな影響与えている。連中は敢えて言えば、60年代〜70年代の全共闘世代のアンチとして出てきた人種だ。真面目はやめよう。真面目な議論に真面目に参加するのはダサイ。あくまでもメタな視点に立って、物事にシニカルにアイロニカルに関わろうとすること。そして、そうしたスタンスを取る言葉の使い方に細心の注意を払うこと。あの時期流行した現代思想と同じで、言い回しの妙を競い、そのセンスを磨くことが、彼らにとっては、もっとも重要な関心事だった。そして、その流れは今でも変わっていないように思える。

 わたしが音楽ギョーカイと多少のおつきあいがあったのもちょうどこの頃だった。コピー文化の波はこのギョーカイにもモロに押し寄せていた。化粧品などの発売に合わせて、CMソングをいわゆるタイアップ商品として発売するのだ。。「君の瞳は百万ボルト」なんかがいい例だ。わたしが作っていた曲もかなりPOPな方だったのだが、担当のディレクターの口癖はそれでも尚、「あざとさ」だった。「はぁんだぁ〜、音楽でメシ食うつもりなら、あざとくないとダメよ。あざとくね。ほうら、今、流行ってる、アレあるじゃん。あのくらいあざとくなきゃ、売れねぇーのよね。おっと、ベション、ベション。」「なに言ってやがる。あざとくなったら、音楽はおしまいだろーが。大衆に迎合して何が生まれるっつーんだ。大衆を新しい世界に連れ出す。それが良質のPOPSというもんだろうがぁ〜。」と心の中でむかつくアオいわたし。と次の瞬間「あっ、この子のビーチクいいねぇ〜。」と、GOROのグラビアを見ながらニンマリしているギョーカイディレクター。「うっ、こいつら、みんな腐っとる。。。」そんな憤怒の中で毎日を過ごしてたっけ。。

 モノを売るために言葉を使う。。。その行為にまつわる快楽と嫌悪。コピーだけではなく、現在の大方の業界カルチャーはすべて、この病に蝕まれている。商品のコピーを考えるときは、その病が放つニオイの中に入らなければならない。それが商品としていいものであるか否かということは、この際、関係ない。言葉が貨幣に換算される、もしくは、言葉が利益を目的として使用される限り、必ず、こうした異臭が立ち上がる。というのも、言葉は目的に応じて使われる道具などではないからだ。モノが精神の表れだとすれば、言葉とは心の表れである。

 さて、新商品のコピー、どうしよう。。。。