9月 17 2006
物質論を語ろう
しばらくの間、閑古鳥が鳴いていたヌース会議室が、最近ちょっと賑やかだ。まぁ、発言メンバーはいつもと同じ顔ぶれなのだが、いろいろと質問や示唆があって、ヌースの世界観をインスタントにまとめてイメージし直していくのにとても役立つ。
その中でやはり再認識させられることがあった。それは、僕らはどうしていつも精神論を求めてしまうのだろう?ということだ。世の中はいい方向に向かっている側面もあるし、もちろん、悪い方向に向かっている側面もある。ただ、いいニュースはメディアで取り上げにくいために、悪いニュースの露出度の方が極めて高くなっている状況がある。そのせいで、世の中の殺伐とした気配により一層の拍車がかかっている。今、子供たちが危ない。親殺し、子殺し。荒廃する社会、人心。一向に止まる気配のない環境破壊。アメリカ帝国の脅威。中国の脅威。北朝鮮の脅威。etc。そして、こうした先行きの見えない世の中を何とか乗り切って行くために、巷ではいろいろな精神論が横行しだす。個より公を優先せんですか!!といった右傾化のものから、環境運動をベースにしたどちらかというとちょっと左寄りのもの。あとは「和」の思想や、伝統的な宗教的倫理に基づいたもの、90年代と全く変わらないニューエイジ思想的な乗りのものまで、どこを見ても精神論、精神論、精神論ばっかりだ。
みんな心が好き。心が変われば世の中が変わると信じて疑わない。でも、それって本当なんだろうか?もちろん、精神論が大事じゃない、というわけだけじゃない。だけど、どうして、物質論がないんだ?物質は心とは関係がない。いや、あるとしても、脳内物質として関係を持っているだけさ。なんて、ひょっとして、そう考えている人たちが多いんじゃなかろうか?僕なんかは、そうした意識の在り方が一番問題に感じる。というのも、僕らの精神は現在、圧倒的に物質的なものとして働いているように思えてならないからだ。科学が驚異的な技術を次々に提供してくるのも人間精神が物質の内部で運動しているからだと思うし、デジタル社会が送り出す圧倒的なイメージの洪水にも物質内部に潜行している精神の力が暗躍しているような気がしてならない。都会に生まれた子供たちは今や自然の事物よりも、人工的な事物の風景に接する機会の方が圧倒的なわけだし、当然、モノ=商品の環境は心にダイレクトに影響を与える。物質が表象・イマージュである限り、表象・イマージュ抜きの人間の心なんてものはあり得ない。
やっぱりここは、新手の物質論が欲しいところだ。物質を語ることが、そのまま精神や他者を語ることになるような、そんな物質論をヌースは展開したい。それこそ、それがこれからの時代に語られるべき精神論というものじゃないのだろうか。
TOWARDS PLATONIC SOPHIENCE プラトニック・ソフィエンスへ向けて:PROTOMODERN PLATONIC RENAISSANCE
2006年9月27日 @ 23:43
イデア叡知光と阿弥陀如来
先に、イデア叡知光の問題を考察し、差異面の光と同一性面の光の2つの光の極性があり、併せてイデア叡知光と考えた。この問題は、実に本質的で、核心的である。
ここで、基本から考えよう。1/4回転によって、零度差異共振シナジーが形成される。これは、…