タブラ・ラサからの出発

 最近、ヌース理論の難解さに拍車がかかって、とてもついて行けないという噂をあちこちで聞く。

 う〜む。これは少しリセットするべきか。。
 哲学や物理学の話を多用するのは、別にヌースを高尚な思想に仕立て上げたいからではない。長年温めてきているヌースの構造イメージを、より広範囲に様々なジャンルと連結させたいがためのわたしなりの格闘である。わたしの身勝手な直感から言えば、科学も哲学も宗教もオカルトも精神世界も、すべて、ある特異点で等化されると思っている。その特異点を巡る思考様式というものがあって、その中心に幾何学やトポロジーが位置すべきではないか、と思っているだけなのだ。もちろん、その思考は表象としての思考であってはならない。表象としての幾何学ならば、それは単にモデルの範疇を出ないからだ。イデアはモデルではない。例えば太陽のイデアなるものがあるとして、そのイデアを抉り出したものは、太陽そのものを作り出す。それがイデアを巡る創造的思考というものだ。

 神が創造の始めにおいて行うことは、世界をタブラ・ラサに戻すことである。そして、そこから、最初の思考が一本の線を引く。いや、線を引く前に点を打つ。では、神にとってのその「点」とは何か?そうしたことが問題となるのが、イデアの思考である。わたしはそのヒントをプラトンに得た。

点とは見ることてである。そして、それは始まりのイデアである。
 プラトンはそう言っている。そうやって、そこから見ることとしての点がどのような発展を遂げて行くのか——それを、類推し、あーでもない、こーでもないと試行錯誤しているのがヌースだ。

 その格闘は見方によっては無様かもしれないし、初期のヌースの弾けるような初々しさを消し去っているのかもしれない。しかし、わたし個人の内部では、極めて観念的だった構造が、自らの身体知覚の中に統合され、しっかりと「概念化」されていきつつあることをしっかりと感じ取っている。ここでいう「概念化」とは、conceptの語源通り、「孕む」ということである。思考が何かを孕む、というのは、悟性と感性の一致においてしかあり得ない。悟性と感性が奇跡的な一点で融合すること。そこに概念の受胎がある。このとき、概念と事物は別物ではなくなる。何かをモデルとして思考するのではなく、その思考の線、運動、そのものが、生成の深部、基体と結合する。今の僕はそのことにしか興味がない。それが傍目には無味乾燥と思えても、それでいい。

 前期ヌース(過去のヌース本三冊までの内容)は、まだ、モデルの段階にすぎなかった。例えば、顕著な例が、「主体の位置は無限遠点」にあるといったような内容を考えてみるといい。主体の位置が無限遠にある、と仮定して、意識のあり方を空間構造を通してモデル化することはできる。NCでも、何でもいいが、そこに点をポンと打って、∞の印をつけ、そこに反転した中心としての無限遠点を措定すれば、事足りることだ。主体はその位置から3次元を見ている。。。もっとも純化された観察の幾何学的な定義を「直交」というように仮定すれば、それはそれで筋が通るし、理屈の運びとしてはそれほど的外れなものでもないだろう。事実、前期ヌースの時期は、その無限遠は事実としてどこか?という問題にはあまり突っ込まず、ひたすら、モデル内部で派生してくる様々な位置の関係性にばかりこだわっていた。しかし、実態のないマーキングをいくつ施したところで、そうした理屈は、それなりの面白さはあるが、あまり意味があるように思えなくなっていった。3次元空間上の無限遠の位置を探すことが4次元認識の構築のために必要不可欠なことであれば、その実態を感官にとって何として現れているのかを指し示す必要がある。それがなければ、科学が描く原子モデルや構造主義が描く無意識構造のモデルと大した違いはない。

 構造を外部から指し示すのではなく、自らが構造体へと変身すること。これがヌースの根本的立ち位置である。その意味で、最近は、無限遠(ψ3の位置)とは視野空間そのものである——と言い始めた。こうした言い回しはたぶん難解きわまりないのかもしれない。しかし、今のところ、それに変わる表現はみつからない。

 絶対的な差異を持つ思考は、タブラ・ラサ(白紙)からしか始まらない。それは跳躍であり、離脱である。と言って、今までの主体がこの世界から離脱していくわけではない。今までの主体は自己同一性の中に閉じたままで別にかまわないのだ。絶対的な差異の思考は周回軌道を外れて行く衛星のように、たった一つで無限の創造空間にコースを変えて行く。それは、この世界とは別の領域で静かに脈動し出す新種の生命のようなものだ。僕らは、ついつい、今の社会的現実に役立つもの、今の生活的現実の問題を解決するもの、今の人間的現実の苦悩を解決できる方途が何かないものか、そこに興味の中心を持って考え続ける。しかし、創造的思考はおそらく、そういうものとは全く距離を置いたところで、独自にその領野を拡大していくはずである。それは諸問題を解決する方途なのではなく、結果的に、解決するものとなるだけなのだ。目的は創造、それのみ。一人の人間としてしかと大地に足をつけて生き、また、一人の天使として天空を駆け巡る。それでいいのだ。そこに一つも矛盾はない。