夜が起きている。。

最近、ワールドカップのTV中継を観ているせいか、どうも生活のリズムが無茶苦茶になっている。今日も午前3時に目が覚めてしまった。こんな時間に起きるのは久しぶりだ。本を書き進めているせいもあるのだろう、真夜中の目覚めというのはどうも僕を必要以上に哲学的にさせてしまうようだ。

 寝静まり返った街。真夜中の静寂の中で、夜の深みが、存在することの厳粛さを無言の中に表現してくる。不思議なものだ。世界は沈黙することによって世界の赤裸々さを見せてくる。あらゆる意味がはぎ取られ、ただ世界があるという生々しい現実だけが、あたかも濃霧のようになって僕を包みこむ。言葉がかき消され、理性がマヒし、わたしという存在がかすんでいくのがわかる。夜が起きている……のだ。レヴィナスのいう「ある/イリヤ(il y a)」である。

 不眠の目覚めの中で目醒めているのは夜自身である。レヴィナスはたしかそう言っていた。そこで無に宙吊りにされる〈わたし〉の思考。しかし、熟睡した後の真夜中の目覚めは不眠の目覚めのそれとは全く違う種類のもののようにも感じる。無の宙吊りという意味においてはなるほど一致している。そこでは言葉は縮退し、むき出しの「ある」のみが圧倒的な存在感で迫ってくることも確かだ。しかし、ここにはハイデガーの「不安」も、サルトルの「吐き気」も、そしてレヴィナスの「疲れ」や「倦怠」も見当たらない。不運なのか幸運なのかはわからないが、戦争という圧倒的な不条理を経験したことのない僕にとって、存在が作り出すこのホワイトアウトは、畏怖するものというよりも、信頼すべきもののようにも見えるのだ。というか、存在を信頼しないで存在の中に生きることなんてできない。もちろん、そうした楽観は、ヌース的思索のせいでもあるのだけど。。
 
 存在とは神の寝姿である。存在は待機しているのだ。だから、僕にとっては、「ある/イリヤ(il y a)」は、ちょうど開場前の劇場のように見える。赤いビロードの絨毯。円弧状に並べられた椅子。非常出口のランプ。出し物は何かわからないが、やがてやってくる観客たちの声でこの劇場は埋め尽くされることだろう。他者の顔がレヴィナスの「顔」に変わるのはそのときだ。そうした顔は、私に呼びかけ、語りかけ、真の自由を呼び覚ましてくれるに違いない。他者とは神の別称なのだから。