死の哲学

death_phiro 久々にいい本を読んだ。哲学の本なので晦渋な表現が多いが、狼のパワーとダンディズムがある。江川隆男著「死の哲学」(河出書房新社)。帯にはスピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリらが渦巻く大地からうまれた衝撃の〈実践哲学〉とある。一口で言えば、死を実践すること——これがこの本のテーマである。いかにもわたし好みの本なのだが、本当にいいことがたくさん書いてあるので、ヌース理論の裏本として硬派の読者におすすめしたい。

 江川氏自身はドゥルーズの研究者らしいが、たぶんドゥルーズよりも、ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」で盛んに引用していたA・アルトーにかなり傾倒しているのではあるまいか。友人である河村悟もそうだったが、アルトー好きの人には近寄り難い不気味な迫力が漂っている。この人の文体にも同じような圧を感じる。死を生きること。死しても尚、器官なき身体として生きること。彼らの口からは、霊魂などといった甘っちょろい夢想的な語句は決して出て来ない。死は一つの身体を持っている。それは少なくとも宗教者が口にするようなふわふわとした正体不明の何物かなどではない。それは今在るこの生の身体の今在る分身でもある。その分身を死を生きることによって我がものとしていくこと。死後の世界は同時にここにあり、それを自らの欲望によって、生きながらにしてここに顕現させること。それが死の実践哲学の内実である。

 しかし、「死を生きる」とは具体的にどういうことなのか?それは仏教の修行僧のように煩悩を絶って心を空にして生きることでもないだろう。また、ユダヤ教徒のある一派のように徹底したストイシズムを貫いて生きることでもないはずだ。死後の魂のためにこの世で善行を積むなどというのは言語道断、それは信仰心を持って世界に臨むことなどでは決してないのだ。

 ——潜在的なものの変形。非物体的なものの変形。別の身体との接続。否定なき無能力。。。作者は「生きる死」をこうした様々なタームで綴っていく。それがドゥルーズ風のイデアを語っているのは明らかなのだが、他のドゥルーズ解説者の言葉よりも艶かしく、より強度を持って心に響く。力強さと流麗さを持った秀逸な文体である。とても才能がある人だ。

 ただ言えることは、スピノザ、アルトー、ドゥルーズ=ガタリ(これにニーチェが加われば鬼に金棒だが)、彼らの哲学を日常の生活の中で実践しようとすると、必ず体制と衝突するということは覚悟しなければならない。ここでいう体制とは別にイデオロギーが作る体制などではない。生活の体制、つまり、人間世界全般の常識そのものと激突してしまうハメになるのは必死である。まぁ、死の哲学を標榜するからには、それは当たり前のことでもあるだろうが。たとえば、

「犬や猫を愛する者たちは、すべて馬鹿者である」。こうした者たちは、間違いなく人間を単なる道徳の動物にするだけでは飽き足らず、動物を人間化して道徳存在を増大させようとしているのだ(p.93)。

 なんてことが当たり前のように書いてある。嫌われる。確実に忌み嫌われる(笑)。うちのかみさんは猫=命なので、思わず笑いがこぼれてしまったが、彼らの生き方を突き通すには、かみさんのみならず、ほぼ人類の全体を的に回す覚悟がなければ無理だ。死の哲学へと参入するには、まずもって、そういった孤高の精神を持って、人間世界の中で暴れ回る覚悟が必要なのである。

 ちなみに作者が傾倒するアルトーもシリウスやマヤ文明に魅せられていた。シリウス派にはいろいろいる。ニューエイジ、ポストモダン、伝統的オカルティスト、UFO信者、さらにはアシッド狂いのジャンキー。人間はこれだから愉しい。幅広くシリウスを語りたいものだ。