ハイリスク・ノーリターン

 今日は保険医の健康診断を受けた。別に新しく保険に入ったわけではない。10年間ごとに掛け金が変更される現在加入している保険のシステムに嫌気がさして、掛け金生涯一律のものに切り替えたのだ。そのためにオシッコまで採取される始末。尿検査をしたいのはむしろこっちの方だ。あんたんとこの会社の役員のオシッコのサンプルを全部調べさせろ。全員グルメ通いで糖尿になってるんじゃないのか。そんな会社は信用できないぞ。。と心の中でブツブツいいながらも、おとなしくオシッコが入った紙コップを手渡すわたし。

 世界から消えて欲しいものを一つ挙げろと言われたら、わたしの場合、まず真っ先に「国家」を挙げるが、もしあと三つ挙げろと言われたら、迷うことなく、「銀行」「証券会社」「保険会社」の三つを挙げるだろう。こやつらは、国家という大親分の保護のもと、合法的に賭博を行い、場代や掛け金の一部をかすめとっていく胴元連中である。この胴元連中が最近、好んで使う言葉が「リスクヘッジ」というやつだ。——いかにして危険を回避するか——全く馬鹿げた言葉だ。他人のふんどしで相撲を取っているのだから、もともとあんたらにはリスクなどない。なのにあたかもリスクを負ってるかのようなフリをする。これがどうも気に入らない。絶えず安パイだけを捨てて一向に勝負をしない連中に一体何のリスクがある?

 保険屋の起源には諸説があるが、保険業自体は、もともとは海運業における積荷の保険から始まったといわれる。昔の航海はそれこそイチかバチかの賭博的要素が強いものだった。保険業者はその資金の何割かを貸し付け、船が無事に戻ってくれば、そのの荷から挙がる収益の何割かを貸し付けの利子として取った。航海につきもののハイリスクを背負ったからこそ、利子としてハイリターンを要求できたのだ。あの英国のロイズ社だって、もとはと言えばコーヒー豆の海運業への貸し付けで始まったと聞く。

 航海とは未知の領域に繰り出し、未知の価値を命を賭けて探査に出かける行為である。今の時代、そうした乗り物に乗って未知の大海に出かけるやつは少ない。丘の上の家の中で温かな暖炉の前に年中居座り、ハイリターンを要求する輩がいかに多いことか。そういうやつに限って「リスクヘッジ」という言葉を呪文のように口にするのだ。銀行や証券会社や保険会社が金のためにしか金を使わないのと同様、リスクヘッジが口癖の連中は自分のためにしか自分を使わない。そんなもののどこにリスクがある。バーローめが。本当にリスクを背負って生きる人間の辞書にはもともとリスクなどといった語彙は存在せんのじゃ!!
 ここでいきなり保険医さんの声が響いてくる。。

 「半田さん、ここにサインして下さい。」
 「あっ、はい。」
 「こことここにもね。」
 「あっ、はい。はい。」

 わたしもしっかり資本主義社会の一員に組み込まれてはいるが、未知の大海への憧れだけは捨ててはいない。早く船を造ろう。大波を乗り切って進むことのできる船を。この船造りに金は要らない。