一日造幣局長

 今日は、今度、顧客サービスの一環として導入する商品券の制作を行った。
もちろん、この商品券はヌースコーポレーションの経済圏のみで交換価値を持つものであり、わたしの会社の製品以外の物品と引き換えることはできない。しかし、いかに零細企業の商品券と言えども、最高数万円から最低数千円まで数種類取り揃えた一応立派なプライベート紙幣である。そこには当然、それなりにそこそこのアウラが立ち上る。実際、出来上がったデザインをプリントしてみて分かったことだが、価値を紙切れに注入するという行為には、サディスティックな快感がある。と同時に多少の空恐ろしさも感じた。そう、ここにはわずかながらも、あの蛇の神の顔が見え隠れするのである。

 貨幣の歴史は古い。そのイデオロギーのルーツはパルメニデスの原理にあるのだろうか。AはAに等しいという同一律。AがAに等しければ、BはBに等しく、そしてまたCはCに等しい。AとB、BとC、そして、CとAは、この同一律のもとでは、互いに排他的であり、一方が他方に同一性を与える根拠となる。対人関係において排他的になればなるほど、自己同一性は保証される。自己同一性は他からやってきているにもかかわらず、だ。

 こうして、君は君に固定され、僕は僕に固定される。君と僕の間にはいかなる交換の可能性もありえない。だからこそ、貨幣はその不可能性の代償作用として、あらゆるものの間の等価交換を一手に引き受けるのである。これはキリスト教的に言えば聖霊の役どころに近いが、こやつはどうひいき目に見ても偽装霊だろう。

 自己同一化した自我は、自らの情念をこの偽装霊に重ね、物を引き寄せる引力と化す。貨幣の持つ中心性が作り出す主体性——資本主義は貨幣と自我が組んだ主体性の経済なのである。この主体性の経済が続く限り人々には幸福はやってこない。当たり前の話だろ。幸福の定義とは主体の交換だからだ。