キング・オブ・ペイン

 不覚にもまたまた過労でダウンしてしまった。わたしの場合、過度のストレスや肉体疲労は必ず胃を直撃するようだ。4年前に一度は完治させたはずの十二指腸潰瘍が再発している雰囲気が、腹回りをプンプン漂っている。タダレた感じのする胃壁をかばうように手を腹に当てながら、ときおり、こみ上げてくる苦みと酸味の入り混じった消化液を無理矢理、飲み込みながら、丸1昼夜、胃の痛みとの格闘が続いた。

 普通なら3日ほどダウンするところだが、会社からの水の差し入れが効いたのか、2日目にはウソのように痛みが引いていた。もうこんな痛みは二度と味わいたくはない、と思いつつ、何度このような醜態を繰り返してきたことか。懲りない奴である。このサイクルはわたしの性格の一部なのだ。

 昔、レントゲン写真で見た潰瘍跡はまるで太陽に穿たれた黒い小さな黒点のようだった。それ以来、胃痛に苛まれると、わたしには、太陽の中で激しく渦を巻いて活動する黒点が見えてくる。幸いなことに、わたしが経験した痛みの種類はとても少ない。幼少の頃に経験した虫歯の痛みと骨折の痛み以外、痛みに関する記憶はすべて、この胃の痛みで覆い尽くされている。胃痛のあの拷問攻めのような波状的な痛みは、まさに、わたしにとっての「キング・オブ・ペイン」というわけだ。

 身体の病とは魂の病である。いや身体の存在そのものが魂の病だと考えれば、身体の病とは病んだ魂のさらなる病である。人はどうしてこんなに病を愛するのか。わたしの場合も例外ではない。

 痛みとは何なのだろう。身体の痛みは一挙に世界そのものの見え方を曇らせる。百の幸福が舞い降りたとしても、そこに一の激痛が混入すれば、幸福は木っ端みじんとなって吹き飛ぶ。痛みが持つこの強度は実に不公平というか圧倒的だ。にもかかわらず、それは秘私的であり、世界全体にとっては瑣末な出来事である(あろう)。それゆえ、痛みは、死以上の恐怖を個人にもたらす。いや、実際、人々が恐れているのは死そのものではなく、死の間際に訪れると想像されるMAXな痛みではないのか。しかし、実際、死の瀬戸際には痛みは存在しない。死には痛みを感覚化する能力などないからだ。ならば、痛みとは死への恐怖心を煽り立てる生の活力の演出ということになる。

 痛みから目をそらしてはならない。痛みから目をそらすことは、太陽から目をそらすことと同じだ。目なんぞ潰れてもいいから太陽の中の黒点を覗き込んでやるぐらいの気構えで、痛みの中心に向かってダイブしろ。そして、そこで、苦痛に顔を歪ませながら叫ぶのだ。——痛みの王よ、痛みでオレを殺してみろ——。世界はあちこちで苦痛の声を上げ始めている。オレの苦痛が世界の苦痛になるのは容易いが、世界の苦痛がオレの苦痛になることはない。この狂った神経回路のせいで、やがて黒点は太陽を覆い尽くすぐらい巨大になるだろう。痛みの王がその正体を表すのはそのときだ。

………馬鹿なこと言ってないで、早く病院に行ってこんね。