物質と文字

7の機械刻印かねてより製作中であった「7の機械」の最終調整も終わって、最終工程として予定していた機械名の刻印作業を行った。直径80cm、厚さ8mmのステンレス板の表面をヘアライン加工し、そこに深さ0.5mmほどの文字彫刻をレーザーで入れたのだ。加工業者にはかなりの金額を取られたが、名付けの刻印は製作物においては、その製作物が持つ機能と同等、いや、それ以上に重要なものではないかとわたしは思っている。こうしたところに金をケチるやつはモノを奴隷としてしか見ていない人種である。

“文字(言語)の理念性は文字(言語)の物質性と切り離すことができない” これは、かのデリダが語ったことだ。その意味では、現代では文字の理念性はすこぶる弱まっていると言える。実際、象徴界の勢力がヘタってきてることは、昨今の「活字離れ」を見ても明らかだが、テキストがPCや携帯端末などのモニター上で表示されればされるほど、書かれたものとしての「エクリチュール」の力は人間の意識活動から姿を消して行っている。デジタルカルチャーの中では、”刻み込み”がないがゆえに、文字と物質性との関係は極めて希薄で、かき消し、書き直しなどの改竄は極めて容易となる。歴史の歪曲でさえデータの置き換え操作一つで済んでしまうのだ。これは権力機構にとっては格好のシステムである。

ピラミッドテキストに代表されるように、古代のエクリチュールはそのほとんどが石に刻み込まれた。存続性の高い固い物質性抜きに文字は存在し得なかったのだ。グーテンベルグが発明した活版印刷でさえ、それは刻印の一種と言っていい。その命脈は現在の「本」にも流れている。印刷された活字とは文字通り活動する文字のことなのだ。しかし、ここ20年で状況は一変した。活字の死が至るところで見られる。手紙がFAXに変わり、FAXが電子メールへと姿を変えることによって、活字が持つクオリアはその物質性の減衰とともに完全に消失していっているような気がする。情報(inform)のみに価値を置く肥大化した関数脳が、リアルな物質(outform)を享受する感覚脳を駆逐し始めているのだ。そこに展開される文字の情景は救いがたいほど荒涼としたものだ。

墓石や記念碑が、JRの山手線の電車内広告のように、TFTパネルで表示されたとしたらどうだろう。そこには綿々と流れる物質的時間の歴史の芳香は掻き消え、正体不明ののっぺらぼうな無時間性が姿を表すことだろう。こうしたのっぺらぼうな無時間性は”存在の死”の名に値するようにも思える。この領域に少なくとも、わたしの生きたこころにはタッチできない。裏を返せば、こうした風景は物質が魂に働きかけを失ってしまった場所でもあるのだ。その意味で、物質にダイレクトに刻まれた文字は、こころに刻み込まれる言葉と深い関係にある。こころに刻み込まれる言葉とは、わたしの情動を深く突き動かす力でもあるだろう。深い情動は、わたしの創造力と意思にダイレクトに働きかける。文字は再び、心への刻印として浮かび上がるべきである。

デリダは、イメージ(図像・形態表象)とシンボル(記号・文字・象徴)は全く別なものであると語っていたような気がするが、これからの新しい時代に立ち上がる文字は、これら両者の差異を埋めることの出来る文字であるべきだ。それは必然的に従来の文字の起源となった図像、形象にわたしたちを導くことになるだろう。「あ」はなにゆえに「あ」と書くのか。「Ω」はなにゆえに「Ω」と書くのか——そして、また、そこに託された意味は——。そのときわたしたちは名の「刻印」から解放され、今度は名付ける者となるべく、その準備に入るのである。