父、倒れる

 父が倒れて病院に運ばれた。本人も気づかないまま肺炎にかかり、9度8分の熱を出し意識不明になったのである。最初は左半身がマヒしていたのも手伝って、てっきり、脳幹出血が再発したのだと思って皆慌てた(15年ほど前、一度やってる)。とりあえず、脳疾患ではないということが分かって安心はしたが、病室のベットに横たわる父の姿を見て何とも辛い気分になった。

 父は今年で86歳になる。もう半分ボケが来ていて、毎日のように会っている孫の名前さえも分からないときもある。病床で点滴を打っていても、点滴が何なのかよく分かっていない。看護婦さんに説明を聞くが、邪魔に感じるのだろう。一人になると力任せに引きはがす。おかけで点滴針は血管をはずれ、腕を腫れ上がらせる。今日見舞いに行ったときは、ベッド一面血が飛び散り、シーツや布団カバーが真っ赤に染まっていた。赤褐色に乾いた自分の血を見て「きたなかねぇー、何ね、これは」とつぶやく父。シーツの交換を頼むわけでもなく、だるそうに、そっと、そのまま横になる……。

 老いたのだから仕方ない。男子86歳と言えば平均寿命より10歳は上だ。父は人生をまっとうした。それでいいじゃないか。人は誰でも死ぬ。その時期が父にも迫ってきているだけのことだ。いや、よくない。ふざけるな。この場所は一体なんだ。人間が死ぬところか。40年間働いて、4人の子供を育て上げ、仏法哲学を朗々と説いていたあの父が死ぬところか。カーテンで仕切られたベッドにはろくに日も当たらない。簡易便器がすぐ横に置かれ、汚物の臭いが漂う。病室には他に2人のボケ老人が意味不明のうめき声をあげている。一人は父よりもはるかに症状がひどい。ほとんど植物人間状態だ。彼らもまたそれぞれの人生を存分に生きてきた人たちだろう。なのに、なぜ、こんなところにいるのか。老化は罪ではない。たとえ、それが凡夫の生涯であったとしても老化は罪ではない。なのに、なぜ、病院はこうも牢獄を真似るのか。ここで父を死なせることなどできない。

 夜、姉たちと父の家に集まった。父の病状がよくなったらすぐにこの家に連れて帰ろう。それまでに、家の中を見違えるような空間にリフォームしようじゃないか。仕切りを取っ払い、陽光をたくさん入れ、カーテンを新調し、クロスを張り替え、床暖房にし、バリアフリーにし、父の死に場所にふさわしいすがすがしい空間にするのだ。もちろん、一緒に暮らす年老いた母のためにも。そして、兄弟力を合わせて介護をしていこう。そうやって皆で話し合った。それは親子だから、というよりも、最も感謝すべき一人の隣人に対する義務としてだ。夜中、母から電話があった。それはお礼の言葉だった。「よろしくたのむね。ありがとう。」それは、普段の母ではなかった。

 こういうことがある度にいつも思う。他者を死者として見れば人はどれだけ人に優しくなれることか。そのためには自分も死ななければならない。生はもういい。いい加減にみんな死を語ろうじゃないか。