4月 8 2005
現実界
今日、出勤前に、少し大リーグ中継でも見ようかとNHKのBS1にチャネルを合わせてみると、「中国の幼稚園児たち」というドキュメンタリードラマをやっていた。小1時間ぐらいの丈の番組だったが、あっという間に引き込まれ、ついつい最後まで見てしまった。
内容は単純なものである。中国の幼稚園に通う園児たちの日常を淡々と撮影し、後で、ある程度の編集を加えただけの作品だ。大人はほとんど出てこない。よって、画面には園児たちの、というか、4〜5歳のホモ・サピエンスの生態が延々と映し出されて行く。プチ暴力あり、プチ猜疑心あり、プチ羞恥心あり、プチ正義心あり、プチ性愛あり、プチ国家観あり。。およそ、大人のホモ・サピエンスが持っているあらゆる生態の原型がそこには余すところなく映し出されていた。
人はよく、幼い頃と自分は何も変わっていない、と感じるという。身体の物質的な構成は当時とまったく違うものになっているし、使いこなす単語の数もゆうに100倍〜1000倍には増えていよう。それなりの人生経験も積んで来たし、自分自身を変えていくための努力もした。。しかし、この「変わっていない」という感覚は、一体、何を指して言っているのだろうか。このドキュメンタリー作品を見ていると、それが「何」かが手に取るように分かる。番組では年少組、年中組、年長組という三つのクラスが舞台となって、シークエンスが展開して行くが、途中、彼らの30年後の未来がまるで手に取るように見えるかのようである。つまり、その「何も変わっていない部分」から見れば、何も変わっていないわけだから、大人になろうとも、彼らはすべてまだ幼稚園児なのだ。
すぐ人を殴ろうとする悪ガキ、わたしってきれいでしょとちょっぴりお高く止まっている女の子。自分の風采の上がらなさにしょげている小心者の坊主。道徳心を持って悪ガキを裁こうとしたところ、逆に殴られて大泣きする優等生タイプの坊や。こいつらは、数十年後にも、全く同じ表情をして、泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしていることだろう。ここに映し出されているのは単なる幼稚園児の世界などではなく、年を取ろうとも寸分違わぬあの「変わっていないわたし」が生きている世界なのである。こうした「変わっていないわたし」の世界のことを、本当は“現実”と呼ぶ。というのも、ほんとうのところを言うと、人はそこでしか生きていないからである。
「中国の幼稚園児たち」。再放送の際にでも、ぜひ、チェックされてみるといいだろう。“現実”の世界が本当によく見える。
かろかろ
2005年4月9日 @ 12:32
わたしも観ました。途中からだったけれど、引き込まれたなぁ。
おっしゃることは、我が家の2才半の息子と、4才の甥っ子を観ていて常々感じることです。理不尽な目に遭って泣く姿は、「なんかうまく説明できんけど、つーか、だからこそますます腹が立つ」という大人の姿と寸分違いません。表現能力と、それに対応する認識能力の上辺の精緻さこそ年を経るにつれて高まりますが、根っこはちーとも変わらんのよね。
生きていくためのテクニックとして沢山の知識とロジックを身につけて第二の天性にまでなってしまうけれど、本当に現実に触れるには、それをきっちり腑に落ちる形でアンインストールする必要があるんじゃないかと思います。それに加えて、理屈と煩悩が肥大化した大人に、そのような「成長」を経験せざるをえなかった逆説的な意味を含めて止揚させる新しい世界観をもつ必要があるんでなかんべか。ヌースが期待される所以ですね。妄言多謝。
kohsen
2005年4月10日 @ 01:56
かろかろさんはお子さんがいらっしゃるんですね。
親から見ると、子供なんていくつになっても、それこそ子供のままなんでしょうね。
しかし、親が親らしく振る舞うことが困難な時代になってしまいました。子育て大変でしょうが、頑張って下さいね。