現実界

今日、出勤前に、少し大リーグ中継でも見ようかとNHKのBS1にチャネルを合わせてみると、「中国の幼稚園児たち」というドキュメンタリードラマをやっていた。小1時間ぐらいの丈の番組だったが、あっという間に引き込まれ、ついつい最後まで見てしまった。

 内容は単純なものである。中国の幼稚園に通う園児たちの日常を淡々と撮影し、後で、ある程度の編集を加えただけの作品だ。大人はほとんど出てこない。よって、画面には園児たちの、というか、4〜5歳のホモ・サピエンスの生態が延々と映し出されて行く。プチ暴力あり、プチ猜疑心あり、プチ羞恥心あり、プチ正義心あり、プチ性愛あり、プチ国家観あり。。およそ、大人のホモ・サピエンスが持っているあらゆる生態の原型がそこには余すところなく映し出されていた。

 人はよく、幼い頃と自分は何も変わっていない、と感じるという。身体の物質的な構成は当時とまったく違うものになっているし、使いこなす単語の数もゆうに100倍〜1000倍には増えていよう。それなりの人生経験も積んで来たし、自分自身を変えていくための努力もした。。しかし、この「変わっていない」という感覚は、一体、何を指して言っているのだろうか。このドキュメンタリー作品を見ていると、それが「何」かが手に取るように分かる。番組では年少組、年中組、年長組という三つのクラスが舞台となって、シークエンスが展開して行くが、途中、彼らの30年後の未来がまるで手に取るように見えるかのようである。つまり、その「何も変わっていない部分」から見れば、何も変わっていないわけだから、大人になろうとも、彼らはすべてまだ幼稚園児なのだ。

 すぐ人を殴ろうとする悪ガキ、わたしってきれいでしょとちょっぴりお高く止まっている女の子。自分の風采の上がらなさにしょげている小心者の坊主。道徳心を持って悪ガキを裁こうとしたところ、逆に殴られて大泣きする優等生タイプの坊や。こいつらは、数十年後にも、全く同じ表情をして、泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしていることだろう。ここに映し出されているのは単なる幼稚園児の世界などではなく、年を取ろうとも寸分違わぬあの「変わっていないわたし」が生きている世界なのである。こうした「変わっていないわたし」の世界のことを、本当は“現実”と呼ぶ。というのも、ほんとうのところを言うと、人はそこでしか生きていないからである。

「中国の幼稚園児たち」。再放送の際にでも、ぜひ、チェックされてみるといいだろう。“現実”の世界が本当によく見える。