ヌース理論とオカルト

 トーラス、チョコボ、S、G氏の4人は午前中、博多を後にし別府へと向かった。昨夜は4人ですき焼きをつつきながら、明け方近くまでヌース関連の話題で話が弾んだ。

 スペインに10年近くガイドとして滞在していたS氏はヌース理論は日本よりもヨーロッパの方がはるかに受けいられやすいだろう、と話していた。というのも、特にスペインなどは大卒レベルの学歴がある人であれば、歴史や文化の背景にオカルティズム(この場合「カバラ」のことを指す)がいかに根付いているかを知っている人が多く、ヌース理論のような現代版オカルティズムはむしろ歓迎されて受け入れられるだろうというのである。

 実は、わたし自身にもヌース理論はオカルティズムの正当な嫡子だという自負がある。だから、人にヌースは疑似科学だ!オカルトだ!といった批判を受けても、そうですよ。というしかない。問題なのは、そうやって、オカルト批判している人たちに限って、オカルトについて全く無知な人たちが多いということだ。オカルト映画という言葉が定着してしまったせいか、日本ではオカルトというと何かグロテスクな悪霊信仰の類いか何かのように思っている人もいるし、ひどい人はオカルトとカルトがごっちゃになっていて、オウムのような集団のことを指すのかと思っている人たちもいる。そういった意味では間違ってもヌース理論はオカルトなどではないので、あしからず。

 オカルトとは元来「隠されたもの」を意味する。これはキリスト教が異端としてきた古代哲学の地下水脈全般をさす言葉だ。さしずめ日本的に言えば「密教的なもの」といったニュアンスだろうか。

 ヨーロッパの歴史や文化は、このオカルト的なもの(密教的なもの)とキリスト教的なもの(顕教的なもの)のせめぎ合いの中で発展してきた。あのルネサンスもオカルト回帰と言っていい出来事であったし、そこから、近代の哲学も文学も芸術も、そして科学さえも生まれてきたのだ。つまり、ヨーロッパ近代の知全般がオカルトをベースに発展してきたと言っても決して過言ではない。ヨーロッパの知識人たちの多くはそのことを深く理解している。しかし、残念ながら、日本の知識人たちはそうではない。日本は明治になって近代化を促すために、ヨーロッパのほんの上っ面だけを急遽輸入し、プログラム化を急いだ。当然、そこで取り入れられた知識は政治、法律、軍事、科学技術といった実学的内容が主であり、宗教、思想、芸術といった文化的なものはほとんど皆無だった。現在の日本人(当然、わたしも含む)の軽佻浮薄なメンタリティはほとんどがこの愚行に起因しているのではないかと思う。実際、G氏はあの天下のT大の哲学科でヴィトゲンシュタインを専攻した哲学青年であるが、彼にT大の哲学の授業の様子を尋ねると、オカルトの「オ」の字も出てこなかった、という。何ぃ〜。哲学の授業にオカルトが出てこない?ヘーゲルだって、ニーチェだって、ハイデガーだって、オカルトなしには存在しなかったろうに。。。これは本当に本当におかしな話なのである。

 哲学の父とされるプラトンはアテネでアカデメイアを設立する以前、ペルシア東方のバクトリア王国に滞在し、そこでミトラ教のマギから多くのことを学んでいる。プラトン哲学の基礎は東方のマギたちの世界観にあるのだ。そして、もちろんこの世界観は現在ではオカルトと呼ばれているものの起源である。つまり、プラトン哲学もオカルトなのである。こうした事情が意図的に隠蔽されているのかどうか知らないが、最高学府で哲学を学ぶ学生たちでさえ、このありさまなのだから、通常の知識人に至ってはもう全滅である。

 現代の知識人に忌み嫌われるオカルトの系譜。ヌース理論には曲解されてしまったこのオカルティズム的思考を再び、現代に蘇らせる使命もある。それは骨の折れる作業には違いないが、それがなければわたしたちは決して普遍的なものと接続することはできないだろう。