3月 13 2005
うわべ即中身、中身即うわべ
今日はヌースアカデメイアのサイトリニューアル作業で一日がつぶれた。外は雪が降ってるし、寒いから、まっ、いいか。しかし、まだ、かなりの分量があるわい。今週はこれにかかりっきりやな——。
今回のサイトのリニューアルの目玉は何と言ってもQuickTimeの導入。Shadeで作ったNC-CubeとNCジェネレーターの3Dアニメーションを何とか組み込みたいのだが、果たしてうまくUPできるのか。アニメーションはデータ量を食うから、あまり多用できないけど、できれば、ヌース理論の解説のページにもビシバシ入れていきたいなぁ。
ヌース理論というはのっけから四次元の話で始まる。三次元には実はオモテとウラがある、とか、あなたのいるところは無限遠点です。とか。四次元とは認識の場所だ。とか。。。このへんの内容がそれなりに突破できないと、ヌース理論はおそらく世界で最もぶっとんだトンデモ理論に聞こえてくるかもしれない。事実、去年、大阪でやった講演では、あまりの訳の分からなさに、始まって5分で寝た人が2人いたっけ。あは。
うーむ、何とかならんものか。。。入り口だけでも何とか強度を持たせんと、ヌース理論のメジャー化は望むべくもない。しかし、幾何学的な話を退屈させずに伝えるのは本当に難しいのよ。やってみたら分かる。それが四次元の幾何学となると尚更なのよね。レクチャーではなるべく神秘主義の話や神話の話を交えながら、物語性を加味して、高次元幾何学で表される意識の理論になんやかんやゴタクを並べながら解説を加えていくのだが、ギミックに偏りすぎてもヌース理論ではなくなってしまう。ヌースの良さは、今までオカルティックな知識としてしか表現しようがなかったことを、あからさまに幾何学的な認識を持って知性の空間上に展開してみせること。だから、聞く人たちにそれなりのクラルテをつかんでもらえないと意味がない。………ヌース理論と既存のオカルティズムの違いはここにある。
まぁ、いろいろ表現を工夫したとして、どのみち喜ばれるのも最初のうちだけだろう。目新しさがなくなれば、またも四次元思考という同じカベがたちはだかる。何事でもそうだが、機材に頼りすぎると、ろくな事はないのよね。有能なミュージシャンはたとえアコギ一本のバックでも聴衆をうならせる。あれと同じなんだよな。有能な理論家はマーカーとホワイトボードだけで、聴衆の思考をガタガタに狂わせ、そのときに溢れ出る意識の蜜の味を忘れられなくなるようにさせんとあかんのじゃい。。学校の先生がよくやる手段——退屈な授業内容をギャグで目先をごまかしながら進む、というのだけは避けるベシ。避けるベシ。。ヌース理論そのものが禁断の木の実の魅力を持たんと何の意味もないんじゃ。。。カッコよさも大事。中身も大事。うわべは中身。中身はうわべ。やっぱ、ここは両方を等化して突き進むしかなかばい。。。
あんだらせん
2005年3月14日 @ 10:03
たいとるの『うわべ即中身、中身即うわべ』と言うのは、論語にある『人いづくんぞ、隠さんや』(人は見たまま)と言うのに通じてるのかな? それには眼力が必要で、『観自在』そして、『ボサ~』と見る?
一昨日くらいに今年初めて雲雀の声を聞きました。
コウセンさんも体調が良くなられてる感じですね?
何よりです。
DIEFOR
2005年3月14日 @ 15:47
やっぱり、そのどちらかを磨き上げることは、もう片方の成長を促すことと同じですね。どちらが先であれ、それに見合ったものが必要とされることに間違いないわけですから。
外見重視ってのも良くないけど、中身がよければそれでいいというのも同じくらい良くないと思います。
諸外国と比べて、日本人はまだまだ物事をプロデュースする力が足りないようです。アメリカと比べるのは極端ですが。
W
2005年3月15日 @ 00:15
やたらめったら、音色増やしても、所詮ダメなモノはダメ。日本の音楽が今そうなってきてますからね。オーケストレーション入れちゃえばクラシック的な風潮が当然の如く受け入れられているのは見ていて物悲しくなります。
ジョン・レノンはピアノ一本で人を魅了できるし、ボブ・ディランはギターとハーモニカだけで、観衆を酔わせる。
ビジュアルとセンス。
この二つが両立できれば、いいんでしょうけど・・・^^;