モノフォニックVSポリフォニック

昔、音楽をやっていた頃、つくづく感じていたことがあった。日本人はハーモニーに弱いということである。ハモれるとかハモれないとか、そういった技術的な問題ではなく、音楽=メロディーと勘違いしているという点だ。

さて、メロディーを音楽と勘違いしてしまうと何が起こるか・・・。これは特に作り手側に言えることなのだが、それはアンサンブルが消えるということである。つまり、楽曲が歌と伴奏になってしまうのである。こうした歌と伴奏に分離した音楽全般をここでは「モノフォニックな音楽」と呼んでみることにする。もちろん、モノフォニックな音楽が悪いというわけではない。モノフォニックにはモノフォニックなりの良さがあるし、歌こそが音楽だ、と言う人がいても否定はしない。しかし、モノフォニックだけで曲を持たせるには、それこそ独創的なメロディーセンスがいる。わたしが若い頃、日本のPOP MUSICを好きになれなかった理由の一つは、そのほとんどが一様にこのモノフォニック・サウンドに支配されていたからだ。(今のJ・POPとやらはよく知らない)

モノフォニックな音楽のつまらなさは、楽曲の構成が大体すぐに見抜けることだ。つまり、底が浅い。底が浅いから、つい、音数が多くなる。音数が多くなるから、ボーカルが必要以上に感情移入を迫られる。その結果、手あかにまみれたギドキドのコレステロール音楽が大量生産されてくる。FATS MUSIC IS FASCIO MUSIC !コテコテの自我が、画一化された同じ顔をして、軍歌のように脅しをかけてくるのだ。オレはこんなに悲しいんだょおお〜。わたしはこんなにさみしいのよぉ〜。分かった。分かったから、せめてイントロは抜きでやってくれ。ふー。

閑話休題。。。。何を話したかったのか忘れてしまった。。。えーと。
しかし、西洋の音楽文化はたとえそれが12平均律の音楽であったとしても、ルネサンス、バロックという文化的変遷をそれなりに通過している。だから、楽曲を単なる歌と伴奏のようには捉えない。主旋律もまた、全体の中にうまくとけ込み、ときにサブに回ったり、ときにリズムを奏でたりと、伴奏側へと回ることだって珍しいことではない。ちょっと正確ではないが、こうした音楽をポリフォニックな音楽と呼んでみよう。ポリフォニックな音楽はだいたいが知性的な響きを持っているが、モノフォニックな音楽は感情的に響く。というか、感情表現に適している。バッハとショパンを聞き比べたときに受ける感覚の違いのようなものだと思ってもらえばいい。実際、バロックからロマン派への流れは、ポリフォニー主体からモノフォニー主体の曲調へと遷移していった。これは近代科学の成立とともにコギトが確立していった時代とかぶる。無意識はモノフォニー的なるものへと歩みを進めたのである。

物質とは凍てついた音楽である、と、かのピタゴラスは語ったが、ヌース理論的にもう一歩突っ込めば、凍てついた音楽とは、眠れる空間の音楽であると言っていい。いまだ目覚めぬ空間が、過去の目覚めの歴史をその微睡みの中に夢見ているのである。モノフォニーの中に折り畳まれたポリフォニー。世界の成り立ちとはそういうものである。

幾何学的思考もまた概念が奏でる音楽である。空間に一本の直線を引く。ニュートンであれば、それは1次元の線である、と言って、モノフォニーの優位を主張するだろう。しかし、知っての通り、ライプニッツはそれを無限次元を含み持つポリフォニーだと主張した。一本の線分上の一点は、どこか別なところからやってきた曲線の変曲点としてその線を交差する。その直線上の別の一点とってみれば、それは曲面上の変曲点がたまたまその直線上に居合わせただけのこと。たとえ一本の線の中であろうと、こうした事件がそれこそ数えきれないほど起こっている。こうした複雑な多様体の重層の中に物質のポリフォニーが息づいていることをわたしたちは知るべきである。物質は粒の寄せ集まりではない。絡み合った音楽なのだ。それぞれ独立した旋律を持った上昇するトランペットの音律と下降するオーボエの音律が、同じG線上で一瞬邂逅し、その両者がすれ違った痕跡をなぞるように、今度はビオラがやさしいロングトーンをなびかせる。ときに優しく、ときに激しく。物質が含み持つ幾何学とはそういうものなのである。

音楽はまた時間の芸術とも呼ばれるが、それが表現されてくる場は、つねに、時間の隙間でもある。なぜなら、音楽が流れる音符となって弾け出てくるのは、過去と未来のぶつかり合う一点においてなのだから。曲の始まりも終わりもその一点に直結している。だからこそ、こうして、この一瞬、その刹那に、君の笑顔と僕の笑顔が弾けては消えていく。。。
オフコースが死ぬほど嫌いだった割りには、少し小田和正してないか。
あいた。中沢新一を狙ったつもりが。。。