3月 4 2005
女の風景
昨日から寝っぱなし。体の節々が痛い。
胃痛は完全に落ち着いたが、カゼの症状がなかなか緩和しないようだ。
昔は2日ほど寝てればすぐに元気になったものなのだが、
最近はそうもいかない。寝過ぎて返って気分が悪くなる。
さすがに、昼すぎからは眠れない状態が続く。
布団の中でぼーっとしていると、
子供の頃、風邪で学校を休んだときに感じた、
あのエアポケットにいるような感覚が襲ってくる。
——世界の歯車から取り残されてポツンと布団に寝てる僕。
みんな僕のことを忘れてしまいはしないだろうか。
——今ごろは、みんな給食の時間だ。僕のパンは誰が届けてくれるのだろう。
幼いながらに、小さな自我の芽生えを感じる時間がそこにはあった。
大人になっても、こうした”時間を外した日”は必要だ。
春先のこの季節、
住宅街の午後の空気には、のんびりしている、とか、のどか、とかいう以前に、
何か世界があることの原点のような匂いが漂っている。
男たちは会社に出て、子供たちはみんな学校に行って、
いるのは主婦と幼児と老人だけ(なのだろう)。
それを想像するだけで、あたり一面の空気にミルクの匂いがしみ出してくるようだ。
世界の表舞台には決して上がってこないような、
もっとも時間が弛緩しているときの風景がそこにはある。
おそらく、その庭先でベニジュームの黄色い花びらが風に揺らいでいるのだろうが、
あまりに風がゆるやかなので、それを見てる者は誰もいない。
しかし、それでも、ベニジュームは揺れている。
そんな”非日常”の中に日頃の喧噪を忘れ去って、どっぷりと浸るのもまた快感だ。
トン、トン、トンと遠くで響く大工仕事の音。
午後の陽気と戯れるすずめのさえずり。
三軒どなりぐらいに住んでいる子供が吹くハーモニカの音。
ときおり上空を通過するジェット機の音。
まるで、ものだけが生きてるような世界。
僕はもう死んでるじゃないか。。
なんというパラダイス。。
いうなれば、女の風景がそこにはあるのだ。
D I E F O R
2005年3月5日 @ 01:13
私は女親に育てられたせいか、相変わらずその“女の風景”が自分の原風景として焼き付いています。
私が追い求めるイマージュも案外そのようなところにあるのかもしれません。
随分前、コウセン氏には「青臭い」と一笑されてしまいましたがw
最も“近しき”ところに至る道は、気が遠くなるような「遠回り」をする他ないようなので、しばらくは迂回を繰り返しながら。ああ、死ぬまでに“此処”に間に合うといいのだけれど。
でも、他ならぬこの「死」こそが私たち人間にとって家族より“近しき”存在なのかも。死は訪れるものではなく、すでに与え(贈与)られていたのだとしたら。。。
う〜ん、、、ゴメンナサイ。戯言です。
どうぞお身体の方、ご大事に。一日も早い回復を心よりお祈りいたします。
kohsen
2005年3月5日 @ 22:49
年は取っても、魂は荒ぶる狼のごとく。。
というのは、儚い夢のようでございまして、
ふと、病身の我が身をかえりみすれば、だぶついた腹に、白髪の混じった無精ヒゲ。
——これは、わたしではない。
と一言、喝を入れ、
明日もまた、戦地へと赴く覚悟であります。