2月 27 2005
POPが好き
昼間、某大手出版社S社のO氏と会った。O氏とは東京に出る度に互いのスケジュールが合えば必ず会うことにしている。ヌース理論をいかなるスタイルで若い世代に発信するか——二人が会って話す話題はいつもそれだ。
実のところ、O氏は90年代前半に、あのキャピキャピで有名な女性誌のC誌に何とUFO特集なるものを36ページもねじこんだ辣腕編集者だ。今でこそちょっと落ち着いたものの、当時はレゲエヘアーをなびかせ、黒皮のコートをはおり、日本中のキてる異端文化人の取材をしまくっていたgrooveyな人物。でも、人柄はとってもあたたかい。年もわたしと一緒。十数年前に知り合ったのだけど、音楽の趣味がほとんど同じだったものだから、すぐさま意気投合し、親しい友人になった。今回は彼のブレーンであるエディターのKさんとデザイナーのMさんを連れ立って、ホテルを来訪。ヌースをいかにして世に出すかの密談となった。
密談なので………中味は内緒(笑)。とにかく、濃密なトークで、話は終始、大盛り上がり。皆、クールでいいんだよなぁ。こうしたクリエーター仲間で会合をすると、POPとは何か、という話題でいつも盛り上がる。というのも、わたしが、ヌースはPOPでハイパーでエッジが利いた表現で行きたいのよねぇー、と無理難題を要求をするからだ。今日もごたぶんにもれず、途中その話になった。
ポップスを始めとして、POPがカバーする意味の範囲はかなり広範だ。大方の人はPOPを「親しみやすい」「分かりやすい」「売れ線狙い」ぐらいの意味にしか取っていない。わたしのいうPOPとは音楽であれば、ビートルズが代表格なのだけど、、、ここは、いい機会だから「POP」の言わんとするところを伝えておこうかな。。
POPという言葉は、もちろんpopular(大衆)という語から派生したものだが、その出自は50年代にイギリスで起こった芸術運動にあるというのが定説。
日本で、芸術がアートへと名を変えるようになったきっかけも、このポップの登場によるところが大きい。〈芸術〉と〈アート〉は英語では同じでも、日本語では明確にニュアンスが違う。芸術は商業的であってはいけないが、アートは商業主義を馬鹿にしない。いや、むしろ、商業主義にある程度、乗れなければアートとは呼びにくい。そうした意味で、「POP」とはその本来が、芸術が担った役割、可能性を、商業主義の中に移植させたような概念としてスタートしたと考えていい。商業主義や物質主義を否定するのではなく、むしろ、その中に芸術の発展性の活路を見いだすという視点の転換が、このPOPという言葉に込められていたということだ。だから、裏を返せば、POPの根底には芸術性が根付いていなければならない。では、芸術とは何か………。
あれっ?ついついリキんでしまっているじゃないの、、、っと。
ごめんなさい。これってブログだったよね(笑)。
長いと読む人がいなくなるから、続きは、また明日。
DIEFOR
2005年2月27日 @ 05:11
そういえば、この間送られてきたInterCommunicationのなかに、先月、国立国際美術館で催された「マルセル・デュシャンと20世紀美術展」での公開シンポジウムの内容が載せられているのですが、そこで岡崎乾二郎氏が、ロマン主義以降の「芸術」は、それまでの一種権力的な領域から、大衆(マス・メディア)やいわゆる社会との接点(他者との契約)においてはじめてその作品性が発生するという(つまり、芸術作品として定義された“モノ”よりも、むしろそのプロセスやそこで引き起こされる“出来事性”の方こそが「作品そのもの」であるといった)形態へ移行したという節を語っているんですね。
これはつまり、時代や文化そのものがモノローグ(内省)からダイアローグ(対話)へと変わりつつあるということを意味しているのだと思いますが、コウセン氏がヌースにおいてひたすら「POP」であることに執着し続けるのも、あるいはこれまで内省的(自慰的)であり過ぎた思想に、「(来るべき)他者」を持ち込んで、あわよくばそいつとあの洞窟(CAVE)でベッド・インしたいなんていう卑猥な願望でもあるのかなあ・・・などと勝手に考えてしまいました。
コウセン
2005年2月28日 @ 01:03
DIEFORくん、こんばんは。現代アートにはあまり詳しくないのだけれども、インタラクティブ・アートの方面で、この人POPだなぁと思う人は八谷和彦氏ぐらいかなぁ。
http://www.petworks.co.jp/~hachiya/works/index.html
彼の「視聴覚交換マシン」なんかは、いわゆるヌース理論でいう「位置の変換」のシュミレーション装置のようなものだからね。最近は反重力モドキのスケボー「エアボード」の開発に打ち込んでいるみたい。八谷氏の中ではそのときどきにやりたいことをやってるだけかもしれないけれど、「視聴覚交換マシン」も「エアボード」も、ヌース的視座から見ると反重力的という意味で同じだね。デュシャンの「大ガラス」なんかも反重力的な作品と言っていいと思うし、モダン・アートというのは、常に、重力からの解放欲求を根底に持っているんじゃないかな。僕なんか反重力的なベクトルを感じさせないものはモダンアートとして認めない(笑)。
DIEFOR
2005年2月28日 @ 10:40
建築においても、モダニズム以降、(コルビジェによるドミノ・システムの発明もそうですが)重力からの解放への欲求が顕著に見え始めますよね。もちろん、ここでは工学的技術の発展が大いに寄与していたわけですが。
でも、最近のいわゆるフラット派の現代建築によって表現されているような、建築の無-重力感というのは、どうしてもサイバースペースを支配するある種の無重力(浮遊)感に近しいものがあると僕は感じるんです。(僕はこうした現代建築に批判的なわけですが)
で、例えば重力がリアル(父)を司るものの象徴であると仮定して、無-重力がヴァーチャル(父殺し)のそれであるとしたら、コウセン氏がおっしゃる反重力というのは無-重力とは似ているようでいて全く異なったベクトルを持った(父を殺すのではなく、“来るべき父”を呼び起こすといった構築的ニュアンスの)ものであると僕は思います。(これは、美術における「前衛的」と「実験的」であることの違い。“破壊のための破壊”か、“創造のための破壊”かの違いに似た部分だと思います)
現代建築が為そうと試みる「重力からの解放」は所詮、反-重力のシュミレーションでしかないのではないかと僕なんかはそう思うんです。
コウセン
2005年3月1日 @ 03:20
DIEFORくん、は、もう失礼だね。DIFOR氏と呼ぶことにしよう。
この間、教えてもらったD・リベスキンドの特集がユリイカで組まれていたので、早速、読んでみたのだけど、リベスキンドってカバラにかなり詳しい人みたいだね。確か対談のところにあったと思うのだけど、リベスキンドは歴史の総体を空間として捉えていたとか何とか。これは、歴史の無意識を動かしている空間のことを言ってるのだと思うけど、その中でカバラのツィムツームの話が出ていた。ツィムツームとは「器の破壊」というやつで、例えていうと、神は創造の最後に、それまで構築してきた宇宙の梯子段を全部とっぱらってしまうというような神学的概念のことなんだ。そして、その出来上がった世界の中で自分は神として君臨する。結果、遺されるのは、父と子のみにおけるユダヤ的契約で、間に介在したはずの聖霊たちはすべて行方不明になってしまう。リベスキンドは、歴史をそうした聖霊不在の中で展開されていく静止空間として捉えていたとかなんとか書いてあった。全く意義なし(笑)。カバラでは、このツィムツームからティックーン(器の修復)に向かうことが物質(マルクト)たる人間の役目だと説くんだけども、DIEFOR氏の言っている「反・重力的なもの」とは、まさにそのティックーンの作業のことを指すし、本来の建築が目指しているものもまた同じだろうと思うね。
rino
2005年4月26日 @ 16:09
オークションなどでも良く見かけるコルビジェソファーですが・・・。
通販で買うならここがお勧めです。(私がほしいっ)
http://smple-style.com/sofa/index.html
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詳しくソファーについて情報のあるサイトはおすすめです。憧れのデザイナーズ、良いものであれば別に自分が納得いく代物なら買いますよね。
LC2ル・コルビジェソファーがこんな風にきちんと解説されていると安心します。