物質とは、空間が射影によって映し出された姿であり、決して空間の中にある何物かなどではない。物質自体がもともと空間なのである。
もちろん、ここでいう空間とは持続としての精神の空間のことであり、つまりは、空間には精神としての持続空間と、その空間を物質として見せている延長空間の二つの種類があるということだ。
そして、それらの空間は普通、こう呼ばれている——奥行きと幅。
数学はこの区別を明確に持っている。それが虚軸と実軸だ。
物質が本来は見るもの(虚)と見られるもの(実)で成立していることと、素粒子が複素数で記述されることは無関係じゃない。言い換えるなら、複素数の世界は主客が一致している場を表現しているのだ。
よく科学は「客観的で観測可能な現象を扱う」という。この表現自体に欺瞞がある。というのも、客観的なものは観測可能ではない。というのも、観測という行為は本質的に主観的なものだからだ。客観性とは、観測者間で共通に認識される現象であって、これらは言語や概念を通じて共有されるものであって、本来、見えない世界にあるものなのである。
要は、見える世界が主観の世界で、見えない世界が客観なのである。今の私たちは、客観世界を見える世界と考えているために、この認識が完全にひっくり返っている。
そのために、人間の主観、つまり心の中で起こっていることはすべて見えない内面の世界であるなんてことが平気で言われるようになる。見えない世界=内面と規定するなら、それはむしろ客観世界の方である。
多くの人が、ヌーソロジーがいう「人間の内面と外面」という概念に違和感を感じるのも、今の私たちが本来の内と外を履き違えているからに他ならない。宇宙における外部とは、主観世界の方向に息づいているのである。
だから、宗教もスピも、自分たちが探究している世界のことを決して「見えない世界」とは呼ばないようにしよう。私たちが普通”内的”と呼んでいるものは、今、現に目の前で現前している、見える世界の中で活動しているのである。
そういう理由から、だから、ヌーソロジーはいつも「奥行き」を通して見える世界の中に入り込め、と言っているのである。そして、それが、本来の君だと。
1月 15 2025
「人間の内面と外面」というヌーソロジー独自の概念に戸惑っている人へ
物質とは、空間が射影によって映し出された姿であり、決して空間の中にある何物かなどではない。物質自体がもともと空間なのである。
もちろん、ここでいう空間とは持続としての精神の空間のことであり、つまりは、空間には精神としての持続空間と、その空間を物質として見せている延長空間の二つの種類があるということだ。
そして、それらの空間は普通、こう呼ばれている——奥行きと幅。
数学はこの区別を明確に持っている。それが虚軸と実軸だ。
物質が本来は見るもの(虚)と見られるもの(実)で成立していることと、素粒子が複素数で記述されることは無関係じゃない。言い換えるなら、複素数の世界は主客が一致している場を表現しているのだ。
よく科学は「客観的で観測可能な現象を扱う」という。この表現自体に欺瞞がある。というのも、客観的なものは観測可能ではない。というのも、観測という行為は本質的に主観的なものだからだ。客観性とは、観測者間で共通に認識される現象であって、これらは言語や概念を通じて共有されるものであって、本来、見えない世界にあるものなのである。
要は、見える世界が主観の世界で、見えない世界が客観なのである。今の私たちは、客観世界を見える世界と考えているために、この認識が完全にひっくり返っている。
そのために、人間の主観、つまり心の中で起こっていることはすべて見えない内面の世界であるなんてことが平気で言われるようになる。見えない世界=内面と規定するなら、それはむしろ客観世界の方である。
多くの人が、ヌーソロジーがいう「人間の内面と外面」という概念に違和感を感じるのも、今の私たちが本来の内と外を履き違えているからに他ならない。宇宙における外部とは、主観世界の方向に息づいているのである。
だから、宗教もスピも、自分たちが探究している世界のことを決して「見えない世界」とは呼ばないようにしよう。私たちが普通”内的”と呼んでいるものは、今、現に目の前で現前している、見える世界の中で活動しているのである。
そういう理由から、だから、ヌーソロジーはいつも「奥行き」を通して見える世界の中に入り込め、と言っているのである。そして、それが、本来の君だと。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 奥行き