確率解釈は物理学的には正しいが、ヌーソロジー的には正しくない

波動関数に対する確率解釈は物理学的にはもちろん正しいが、その本質は確率というよりも、意識が持った位置認識に対する指向性の方向の違いだろう。つまり、位置なり対象を観測者がどの方向から指向しているか、それが確率因子として解釈されているということ。

観測者における持続は当然、主観空間の全方向に向けて、かつ、一つの対象に対しては全位相から捉えているが、時空上での観測となると、そうはいかない。ある一つの位置しか観測できないし、また、その一つの位置に対しても、ある一つの位相からしかアクセスできない。
一つの位置の観測に関して言えば、観測者のアクセス線に対して、持続がもった観測の全位相が内積として影を落とし、アクセス線に対するその寄与度を実数化させ確率として解釈している。ただ、それだけのことだろう。
〈確率「1」で物を見る〉ということをきっちりと定義づけしていないのて、存在確率などといった奇妙な概念が登場してくるわけだ。

確率を提供しているのは、時空と持続空間の差異である。持続空間で世界を見るならば、確率など何の意味もない。つまり、世界は確率的などではないということ。パラレルワールドなんてものも存在しない。もし存在するとするなら、それは他者世界と考えるべきだ。

存在世界はそんな空疎なものでない。「持続(こころ)が世界を見させている」という感覚を今の人間はほとんど失いかけている。