幅オンリーの空間から出よう

無限大=無限小という感覚が4次元認識のための絶対条件となる。幅と奥行きは本来等化されている。幅で見れば空間はマクロだが、奥行きで見ればそれはミクロの始原的世界である。この認識のみが志向性の乗り超えを可能とし、自分自身を外と内のねじれとして見ることができるようになる。

見るところにミクロがあり、見られるところにマクロがある。このねじれは当然のことながら自己と他者を折り返す。存在論の哲学者たちが”存在の襞”と呼ぶものも、この折り返しが生み出しているものだ。襞の思考は対象から逃れた主客一致の思考を開始するが、それは自他間の呼吸と言っていいものだろう。

対象知覚とはまったく違った方向にある、この垂直的な可視性。空間の深淵へと向かって穿たれた存在の穴。万物の生成はその内部で活動する永遠の我と汝との語らいの中で行われている。自他が、ここに、こうして、生きていることの理由もそこにある。私たちは彼らの表面だ。
科学的世界観の偏りは、空間が持つこうした垂直的な次元を直視することなく、幅(マクロ)でしか宇宙を見ていないところにある。奥行き(観測者)が空間に参画することを拒否し、常に世界の外部から宇宙を対象として眺めている。そのために、自分自身が始原であることに気づけていない。

量子現象がその誤りを執拗に訴えてきているにもかかわらず、科学的思考は外に立脚する視点をなかなか払拭できずにいるというのが現状だ。物質に対するゲシュテル的視点を一度完全に払拭しない限り、量子に対する理解は決して生まれないだろう。量子とは奥行きに根付く、原初の私たち自身である。

幅世界には幅世界固有のクロニクルがある。しかし、ここに見られる歴史は徹底した自己疎外の歴史である。この歴史観のもとに世界を見ている限り、他者は常に自己を抑圧するものとして現れてくる。およそ世に現れる全ての悪の起源は、この幅へと一方的に偏向した存在概念にあるのではないか。

幅オンリーの空間から出よう。そこにはあなたはいないのだから。