西田の場所論と量子論は統合可能

西田の場所論とヌーソロジーの関係をさらに深掘りしてみます。

ある判断が現実に当てはまるためには、現実における経験の積み重ねが必要となる。経験の積み重ねは、当然、無数の判断の積み重ねを伴う。 ということは、意識においては一般者の自己限定が無数起こっているということを意味している。
つまり、具体的な事実経験にもとづいて、数多くの述語が持続空間内に過去の痕跡として蓄積されていると言うことになる。そのような具体的な事実経験によって意識された述語群が、具体的一般者になっているということだ。

さて、問題はここだ。こうした持続における経験の蓄積を絶対無の場所は可能にしなくてはならない。単位行列とパウリ行列とで表現されたこの絶対無の場所は、そのような能力を持った空間として解釈することができるだろうか。

ここで、この単位行列とパウリ行列で表現された空間は何だったのかを思い出しみよう。これは、ヌーソロジーでは無数の垂子空間が重畳した垂質空間の物理学的表現だ。
この空間は複素2次元で見れば、スピンのSU(2)の変換場に相当しているが、スピン自体、観測者周りの無数の垂子次元を統合したものなので、SU(2)は、観測者の周囲におけるすべての主語となる場を特殊(述語面)へと変換する場を担っていることになる。つまりは、そこでは絶対無駄の場所は、無限次元の複素ヒルベルト空間の意味を持っていることになる。

西田は晩年、自らの哲学を「創造的モナドロジー」と呼んだのだが、まさにこのモナドを素粒子(この場合、物質粒子)と見なすならば、西田の場所の論理を量子力学の数理構造と重ね合わせることで、哲学と物理学が一致を見る。
ヌーソロジーの構造概念が両者を結びつける働きをしているということだ。

自己が自己を映す鏡の場・・・実際には鏡像化していた自己を真の主体へと映し返す場のことなのだが、この場こそが、OCOT情報にいう「位置の等化」の意味なのである。