4月 4 2025
大きさや広さで見ている尺度の空間から出ること
さんがつさんが以前動画で説明していた「点球」次元から「垂子」次元への認識の上昇は、尺度で空間を思考することからの脱出を意味します。物理学的に言えば、スカラー空間からベクトル空間への移行です。
ベクトルが持つ方向性は、精神の方向性を示しています。その意味で、ベクトルはOCOT情報が「最小精神」と呼ぶものに関係しています。量子力学的には、運動量ベクトルと位置ベクトルのペアがそれに当たります。
このように、スカラーとベクトルの違いが時空と持続空間として表れます。持続空間では、持続が生み出す方向性が重要であり、ベクトルは精神の働きによってスピノルやアイソスピノルへと逐次成長、進化していきます。これは当然、人間の意識構成と関係しています。
時空における物理現象は、この主観としての持続の活動が時空という外部の場を開いたとき、その精神進化が結果として点球次元に射影されて始まるのです。
余談ですが、量的思考の中では、人と人は繋がりを持つことはできません。精神に方向性がないからです。「金の切れ目が縁の切れ目」とは、まさにその逆説的表現です。
まぁ、みんな薄々はわかっていることですが、お金には精神の方向性がないのですよ。精神の方向性がないのですから、生の充実の方向性もないということですね。残念!
4月 15 2025
西田の場所論と量子論は統合可能
西田の場所論とヌーソロジーの関係をさらに深掘りしてみます。
ある判断が現実に当てはまるためには、現実における経験の積み重ねが必要となる。経験の積み重ねは、当然、無数の判断の積み重ねを伴う。 ということは、意識においては一般者の自己限定が無数起こっているということを意味している。
つまり、具体的な事実経験にもとづいて、数多くの述語が持続空間内に過去の痕跡として蓄積されていると言うことになる。そのような具体的な事実経験によって意識された述語群が、具体的一般者になっているということだ。
さて、問題はここだ。こうした持続における経験の蓄積を絶対無の場所は可能にしなくてはならない。単位行列とパウリ行列とで表現されたこの絶対無の場所は、そのような能力を持った空間として解釈することができるだろうか。
ここで、この単位行列とパウリ行列で表現された空間は何だったのかを思い出しみよう。これは、ヌーソロジーでは無数の垂子空間が重畳した垂質空間の物理学的表現だ。
この空間は複素2次元で見れば、スピンのSU(2)の変換場に相当しているが、スピン自体、観測者周りの無数の垂子次元を統合したものなので、SU(2)は、観測者の周囲におけるすべての主語となる場を特殊(述語面)へと変換する場を担っていることになる。つまりは、そこでは絶対無駄の場所は、無限次元の複素ヒルベルト空間の意味を持っていることになる。
西田は晩年、自らの哲学を「創造的モナドロジー」と呼んだのだが、まさにこのモナドを素粒子(この場合、物質粒子)と見なすならば、西田の場所の論理を量子力学の数理構造と重ね合わせることで、哲学と物理学が一致を見る。
ヌーソロジーの構造概念が両者を結びつける働きをしているということだ。
自己が自己を映す鏡の場・・・実際には鏡像化していた自己を真の主体へと映し返す場のことなのだが、この場こそが、OCOT情報にいう「位置の等化」の意味なのである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, パウリ行列, 複素ヒルベルト空間, 西田幾多郎