5月 20 2014
わたしの内部の夜の身体を拡張すること
空間と時間が実数で記述されること自体から考えて、空間と時間はほんとうのところは物質の属性とも言える。と言うのも、今や物質の本性は複素数でしか記述できないものとなっているからだ。しかし、いまだにわたしたちは複素数として活動するこの物質の本性の実態を何も知らない。この本性から空間と時間は生まれ出ているのだ。
空間と時間はほんとうは物質の内部にあるにもかかわらず、それらを外部に捉えているとすれば、そこで起こっている認識や思考もまた倒錯していると言えるだろう。ならば、そこで捉えられた身体もまたほんとうの身体の逆像のようなものである可能性がある。
こうした逆像としての身体イメージはアルトーがいう「思考不能に陥ったマリオネット」のようなものだ。そこには偽の自動性があり、わたしたちのほとんどがこの偽の自動性の中に生と身体を見ているということになろう。だからアルトーは言うのだ。「わたしの内部の夜の身体を拡張すること」と。
空間と時間の中に立ち現れている身体とは、アルトーの感覚から言えば「昼の身体」にすぎない。この「昼」は当然のことながら、理性的権力の明晰さを象徴している。それは言葉の力と言いかえてもいい。
空間と時間の中に立ち現れてくる世界。その世界を言葉は分節する。分節に分節を重ね、分節の極限にまで切り刻む。しかし分節だけでは世界は断片化してしまうので、そこで言葉の力は束ねる作業に入る。この束ね方がときに国家と呼ばれたり、ときに精神と呼ばれたり、ときに組織と呼ばれたりするものとなる。この束ねの部分に権力が宿ることになる。
外で起こっている戦いはほとんどの場合が、この束ね方を巡っての諍いである。言うなれば「わたしの内部の昼の身体」が展開する偽の自動性に沿った機械的反復。アルトーはだからこそ、自身の内部においての純粋戦争を始めたのだろう。
このような純粋戦争のことを現代という時代におけるグノーシス運動と呼んでいいのではないかと思う。空間と時間という一つの永遠を超えて、さらなる永遠へと向かうこと。昼の身体から夜の身体の中に閉ざされた創造の原野に曙光をもたらすこと。
僕にとって、奥行きの名のもとに時空のはらわたを切り開き、その内部から複素空間を引っぱり出すことは、この言葉によって覆われた存在の皮膜を切り裂き、アルトーのいう「わたしの内部の夜の身体を拡張すること」に等しい。それは「器官なき身体」と呼ばれるものでもあるわけだが。。
5月 27 2014
言葉を超えて声の彼方へ
言葉が彼岸(他者)と此岸(自己)の間でコミュニケーションの道具として活動できるのは言葉がこの両岸に架かる橋を渡り終えた何者かの力の現れだからだろう。「言葉は神とともにありき」と言われるように、言葉には神霊が宿っており、僕らがコミュニケーションと呼んでいるものもまたこの神霊の内部で展開されている閉ざされた交換性にすぎない。
しかし、言葉は同時に声として発せられるものでもある。文字として表された言葉もこの声としての言葉を含んで初めて成り立つものだ。しかし、声自体は言葉ではない。声は言葉からはみ出ている。言葉には成らない言葉。それが声なのだ。とすれば、声は神霊が擁する意味中枢に捕まることから常に逃れ出ようとする聖霊たちのほとばしりとも見ることができるだろう。絶叫の声、悲嘆の声、歓喜の声。。声として言葉の外部へと泉のように溢れ出る情動の流れ。
おそらく、一般に考えられているように声から言葉への進化があるのではない。言葉から一つの内なる声に向かっての進化があるのだ。この声はわたしたちの意思の内震えのようなものであり、鉱物たちがその内部に響かせている振動としての声でもある。言葉なき内なるコミニュケーション(コミュニカシオン)。。
このように想像してくると、石板に文字を刻むというあの一神教の行為がいかに野蛮なものであるかが分かってくる。一神的な思考は「22」という数の魔法に幻惑されており、わたしたちから石の中に響く声を聴き取る能力を奪い取る。
鉱物たちの中に響いている声にとっては、部分も全体も同じ——である。そこには、いかなるヒエラルキーもなく、静寂のざわめきの中でただひたすらにコスモスを結晶化させているのだ。
「石は凍れる音楽である」と言ったのは確かピタゴラスだったと思うが、その音楽とは聖霊たちが奏でる和声であり、幾何学の本質もこの和声にある。プラトンが掲げた「幾何学を知らざるもの、この門に入るべからず」というあの有名な言葉も、この意味においての幾何学である。言葉を超えて声の彼方へ——そして、コミュニカシオンの結晶地帯へ、、
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: コミュニカシオン, 言葉