7月 10 2020
最近の「人間の内面と外面」における近況
ヌーソロジーの最重要概念でもある「人間の内面と外面」について4次元込みで、簡単にまとめとみました。ヒマな人は図を見ながら考えてみてください。あと、雑感も加えています。
【重要】人間の内面と外面のまとめ
●図1 人間の内面(思形空間)
物が「ある」と感じている世界(時間と言語空間)
●図2 人間の外面(感性空間)
自分が「いる」と感じている世界(持続と知覚空間)
※重要なことは見えている世界とは「人間の外面」だということ。「人間の内面」は見られている世界。
実に当たり前のことなんだけど、「目の前にリンゴがある」という認識は言葉のおかげで成り立っている。そして、その言葉が活動している空間は見えない。ということは、「ある」世界は見えている世界じゃないってこと。このことに気づくのがとても大事。
こうした形で空間と意識の関係が整理できてくると、世界を時空(人間の内面)だけで思考することが、いかに世界を見失っているかがよく分かってくる。「いるもの」が徹底的に抑圧される運命にあるのが時空という場所なんだね。
ここに描いた内面・外面の二つの4次元方向は〈見られる/見る〉が起こっているところだから、時間の発振源というのは、「見られる」という意識経験がもたらすものとも言えそうだね。「他者の見る」に「自分の見る」を重ね合わせたところに時間が生まれているということだ。
意識とは流れだ。それは様々な流れと関わり合いながら流れる流れの集まりでもある。精神的な個を作るのはこうした流れの関係性であって自我ではない。自分を一つの自我として考えるのをやめること。脳が体の中枢ではないのと同じように自我は意識の中枢ではない。観察子の概念はそれを見せてくる。
観察子の思考に入ることはこうした流れに乗ることなのだと想像しよう。そして、この流れこそが自身の内に沈み込んでいた譲渡不可能な魂の部分だったのだと深く心に刻みつけよう。その流れが回帰する円となって渦を作るとき、自我は自分自身の由来を見出し、自我であることをやめるだろう。
図1と図2の4次元の反復を詩的に表現するとこんな感じ。
一瞬が毎瞬、毎瞬、面背から次々と立ち上がり(図1)、面前の一つの永遠の中に記憶として溶け込んでいく(図2)。一つの永遠はその流れの中で他の永遠たちと触れ合いながら渦を巻き、そこからフィシスの光とともに新しい瞬間を輝かせる。
ここには時間となって言葉を連れて立ち上がってくるもの、時間を止めて諸瞬間を永遠の中へと送り出していくもの、ひとつの永遠を他の永遠と出会わせるもの、そして、その出会いを再び時間へと変えていくものという四つの生き物たちが生きている。アンゲロイの世界と言っていい。
これだけでも、ファンタジーが書けそう(笑)。ただ、念のためにもう一度言っておくと、これはヌースの目に映る素粒子(観察子)たちの生態の描写。つまり、無意識的現実。
12月 1 2022
ヘンリー・ミラー、いつかじっくりと読みたい作家
「思うに芸術家も学者も哲学者たちも、みんなあくせくとレンズ磨きに精を出しているのではなかろうか。それらすべては、いまだかつて起こらない出来事のための果てしのない準備でしかない。いつの日かレンズは完成されるだろう。そして、その日にこそ私たち誰の眼にもはっきりと、この世界の驚愕すべき尋常ならざる美しさが見てとれることだろう」
ヘンリー・ミラー
私たちが目にする物は球面で閉じている。しかし、それを見つめる眼差し(奥行き)は物への射影線でもある。ここに見るものと見られるものが合流するルートがある。物の表面を2次元の射影空間とするなら、眼差しの所在は4次元空間ということになる。眼差しが幾重にも畳み込まれたものとしての物・・・
4次元は純粋経験の場。そこでは私と対象は未分化で、合一している。そこには経験する主体としての「私」の位置はない。「私」がいないのだから、対象もまた客体としては意識されない。その意味では4次元は「私」の経験ではないということ。「私」ヲ経験サセテイルモノ——と呼んだ方がいい。
アリストテレスの『魂について』では、ヌースが光に喩えられている。
「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである」
奥行きは光そのものである。そこには「いつでも今・どこでもここ」を拠点とする個別の能動知性が眠っている。
光の中には高次元の対称性の論理が働いている。ドストエフスキーはそれが神だとも言う。現代ならそれは素粒子に相当する。そこからどれほどの対称性をこの知性は生み出していくのか。光に始まり光に終わる存在という名の円環。その綴じ目に受肉したロゴスとしての「私」の身体が息づいている。OCOTのいう「重心」。
ミラーのいうレンズはすでに完成している。私たちが進むべきは、光の中の対称性の世界。ヌーソロジーの思考装置の一つであるケイブコンパスはそのための羅針盤だと思っている。
現実は観念と実在性との統一の達成においてこそ現実たり得る。つまり、すべての現実的なものは、それが理念をその中に孕み、理念を表現するものであるかぎりにおいてのみ存在しているということだ。物質と精神を統合する存在論的知覚はそのようなものとしてやってくる。
つまりは、外側から見ると物質。内側から見ると精神。これが理念が理念たりうる絶対的条件と言っていい。これがヌーソロジーが思考素としている観察子の定義でもある。つまり、観察子とは理念(イデア)だということ。
「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」
ヘンリー・ミラー
ならば、内なる原子爆弾を炸裂させる以外ないではないか。君自身が内なる核兵器となれ!!——それがヌーソロジーのアプローチだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アリストテレス, ケイブコンパス, 観察子