12月 7 2017
「もの」の根源的空間としてのSU(2)
4年前に書いた記事。
http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=5501
西田の「物となって見、物となって行ふ」という言葉だけど、純粋思考の本質を一言でズバリ言い当てているよね。
ヌーソロジーも、まさに、この思考線を追いかけている。
それは、まるで泥土の中を匍匐前進していくような微々たる歩みなんだけど、最近、何とか、一つの錆び付いた鉄条網をくぐり抜けた感がある。
土曜日のヌースアトリウムでの「SU(2)の描像」に関する話は、この記事をイントロに使ってみようかな。
というのも、SU(2)(複素2次元空間における回転)という空間概念自体が、思考が「物となって見、物となって行ふ」ための、根源的空間=大地のような気がしてるから。
この大地の描像が生まれてくると、今まで、単に物質の位置的な役割しか持たなかった空間が、永遠の命を宿した流動的生命へと劇的に変化してくるんじゃないかと思ってる。
2013年からあっという間の4年だったけど、この生命は着実に成長してきていると思うよ。
12月 8 2023
時間とわたし
西田は言う。
「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」と。
この言葉は、鏡像としての外的自己から、内的自己たる純粋経験へと自己の意味合いを変えろと言ってるようなものだ。
私たちが日頃感じている自我は経験の主体ではない。
むしろ経験の対象だ。
真実においては、純粋経験(持続)たる内的自己が外的自己としての自我を対象として経験しているのである。
外的自己と内的自己、この両者の共同において、そこに初めて「私」が成立し、そして、この「私」の成立こそが時間の正体なのである。
ヌーソロジーにいう「位置の統一化」において、そのような時間が私たちに舞い降りてくる。
もう少しの辛抱。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 西田幾多郎