4月 16 2014
伝わるまで何度でも…
ヌーソロジーが提供する空間認識の基本は幅と奥行きの差異に目覚めることから始まります。現在の空間認識は空間を3次元と見なしているために、奥行きも幅と同一視されており、この差異が意識化されていません。奥行きとは本来、世界を見ているもの自身、つまり主体です。
奥行きにおいては目の前の点と無限遠方向との区別がつきません。これは奥行きがミクロとマクロの対称性を持っていることを意味しています。 目の前の一点を中心にしてその周りを回ってみましょう。そこで奥行きがどのように見えているか確認してみましょう。
それは常に「一点」としてしか見えていないことが分かります。
このことは、普段、わたしたちがマクロに広がっていると思っている空間が、奥行きにおいては極小のミクロに潰されているということを意味しています。極大=極小というモナド化の原理はこのような奥行きの性質を通して実現しています。
幅で空間を見ると宇宙は極大のものとなり、奥行きで空間を見ると宇宙は極小のものへと反転する——この事実をまずは感覚の中に浮上させることが、ヌーソロジーの思考を行っていくための基礎となります。
では、どうあがいても「点」にしか見えないこの奥行きの中に一体何があるのでしょうか。
奥行きは世界を見るためには絶対必要なものであることが分かります。わたしたちは奥行きなしで世界に関わることはできません。見られるものが幅とすれば、奥行きは見ることそのものであり、同時にそれはまた見ているものでもあることが分かります。
「見ることと見ているものの一致」を実現しているのが奥行きなのです。
このように考えてくると、もはや世界を見ているわたしはモノの手前に存在しているのではなく、モノのなかで小さな小さな点となって存在しているということになります。
ただし、こうした言い方はあくまでも奥行きに幅を与えてしまった現在のわたしたちの空間認識からの表現です。幅と奥行きの絶対的差異が認識に明確に上がってきた意識から見れば、奥行きはもうあるがまま、そのままで、極小の世界に存在しているという感覚になってくると思います。
今まで何度も言ってきましたが、わたしたちはベルクソンの言うように「モノにおいてモノを認識している」のです。
こうした認識が哲学の中で幾度となく主張されてきたにもかかわらず、それが力を持てなかったのは、現代科学との連結がうまく果たされていなかったからです。
奥行きを「虚軸」と見立て、わたしたちの現在の空間認識を3次元認識から複素空間認識に変え、この認識を現代物理学が展開している素粒子世界に結びつけようとしているのがヌーソロジーだと考えていただければいいと思います。
その新しい空間の風景が見えてくれば、わたしたちの意識は創造空間の開けに出ます。アルケー(始源)です。「包まれつつ包む」ものであった宇宙が、「包みつつ包まれる」という神の逆モナドの世界へと方向転換を開始するのです。そういう大きな時代の転換点がやってきています。
下写真 Monadology #1 / 落合陽一
6月 16 2014
宇宙の始まりと終わりのお話
ヌーソロジーでは「背中合わせの自己と他者」というイメージが出てくるのだけど、これは4次元における人間の有りようを象徴化したものなんだよね。つまり、4次元世界においては君と僕は背中合わせでくっついたような関係で生きているってこと。
4次元と言っても、いきなりは難しいだろうから、次のように考えていくといいよ。まず、君は3次元の中にはいない。3次元の中にあるのはすべて物質。君や僕の物質的身体は3次元の中にあるけど、それを見ている肝心の精神の位置は3次元世界で言えば、無限遠とも言っていい場所にある。
「無限遠」と言ったからといって、それは決して距離的に遠いという意味じゃない。距離ではもはや表せないところ、次元が違う場所ってな意味なんだね。「無限遠」としたのは幾何学的に把握するためにはそれが極めて有効な概念だからなんだけど。
例えば目の前に直線があるとして、その両端が無限の彼方にまで延びていってるとする。無限だから到達点はない。で、その到達点が実はその線を見ている自分の位置だったとしたら。。そういう考え方でヌーソロジーの基本は成り立っている。直線を見るためには直線に直交する視座が必要。
直線に無限遠点を付け加えると円と同相という幾何学的な考え方があって、この直線の丸まりによって直線は自らを円に変えて、直線の外に出るわけだね。
図で描くとこんな感じ(下図上参照)。目の前の直線に輪っかが接していて、その接点とは反対側の対極点に無限遠点に位置する僕がいるってイメージ。このときの円の直径が奥行きになるけど、これが空間の第四の次元としての虚軸と考えるといいです。
これを実軸と見なしているのが3次元認識だね。他者視線から見た幅の世界で自分をイメージしているからそういうことになっちゃう。でも、それだと観測者は物質としての身体の位置でしかなくなってしまうよね。こうしたイメージは人間をモノとしてしか見てない。最悪でしょ。
で、この無限遠点への出方には二つの方向があって、図で描くとこんな感じ(下図下参照)。この赤丸で示した二つの無限遠点は実はウラとオモテで繋がっている。自己と他者が背中合わせというイメージはここから来ているわけだね。
こうした間身体感覚をおそらく古代の人たちは持っていたんだよね。それがプラトンの『響宴』に出てくる「大昔の人間」のイメージとして表されている。いわゆる「愛の起源」ってやつ。これは古代ローマのヤヌス神と言ってもいいかもしれないね。ヤヌス神というのは、始まりと終わりの神のこと。January=1月の語源にもなっている。
哲学も自己他者問題を深く追求しているのだけど、存在の円環の思考が科学的理性によって剥奪されているものだから、絶対的外部から到来する他者の意味がよく把握できていないんだよね。終わりと始まりの結節としてこの世界があるという見方ができないの。
精神の終わりとしての神=一者は他者の肉体として出現し、一方、精神の始まり側は自己として出現する。そういう関係があるからまた自己の精神は光子として物質の起源に入り込んでいるわけだね。哲学がいうアプリオリは光子に始まる素粒子世界として構成されている。。もちろん他者においての自己からも同じ事が言える。
こうやって、光子から人間の肉体に至るまでの気の遠くなりそう進化を物質ではなく、精神で辿ろうと決心したのがヌーソロジーの作業。裏街道だね。道のりは長いけど、頑張るよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 無限遠