9月 6 2017
ヌーソロジーのいう「次元」について
人間の意識は次元を交差するだけで、次元自体は全く見えていない——これは、OCOTが交信のごく初期に伝えてきた内容だ。
今考えれば、ヌーソロジーの思考の歩みは、この「次元」の正体を明らかにし、この次元の認識を通して宇宙を見る視力を育てることにあったのだな、と強く感じている。
30年近くかかってはっきりと理解できたのは、「次元」とは「わたし」という存在自体を世界に出現させてきている空間的な仕組みだということだ。だから、次元を知ることはわたしの意識の骨組みを知ることに等しい。つまり、自己知にほかならない。
この「次元」には二種類の力の流動がある。一つは定質、もう一つは性質と呼ばれている。
哲学の言葉を借りるなら、定質と性質の世界は、主客分離以前にあった純粋なイデア空間の場所、もの自体の世界と言っていいような領域だろう。宗教的に言うなら、霊の住処とも言える。
「次元」に対する知覚が生まれてくると、現在の自己と他者の意識はこの霊的領域を挟んで真っ二つに引き裂かれていることが分かってくる。つまり、互いに絶対的に他なるものとして閉じていて、そこには交換の可能性はない。
とりあえず、自己側の意識の流れだけをヌーソロジーが用いるケイブコンパスで分かりやすく図式化してみよう。下図のような感じだ(下図)。
この図で「経験的意識を作り出す力」と書いている部分は「ヒトの思形」と呼ばれるものだ。これは自己側の定質が他者側の定質*をまさぐっている状態に当たるのだが、僕がいつも「他者-構造」と呼んでいるものと同じものだと考えていい。
この他者-構造によって、次元は崩壊する。なぜなら、定質が性質に交差を行った時点で、性質が先手を持つ力の流動が生み出されてくるからだ。次元は常に定質が先手を持って流動しなくてはならない。そこに真逆なものが出現してくるのだ。この「ヒトの思形」によって生まれてくる性質先手の力の流動のことを「反定質(定質*に先導されているという意味)」と呼び、これが人間の経験的意識の起源となる。
図からも分かるように性質が先行してしまうと、定質は潜在化する。これは、空間的に言うなら、奥行きが幅化してしまい、真の奥行き側が沈下してしまうことと思っていい。真の奥行き側は持続空間の中に構造を持ち、そこに人間の意識にとっての超越論的なものを形作っている。それが「次元」でもあるわけだ。
哲学的には、定質・性質という本来の力の関係が逆転して反復しているこうした意識状態がカント哲学以降の相関主義の構図になっているのが分かる。否定性先行型の弁証法の構図と言い換えてもいいかもしれない。次元が転倒して働いているわけだ。この転倒した次元の中に出現するのが、「人間」という存在らしい。
さて、他者側における「次元」は、この図で言えば、まるまる青(ヌース)と赤(ノス)が逆に構成されている。奥行きと幅の構成の相互反転の効果は次元全体を貫いていると考えていい。この差異が幅意識先行の意識には全く見えていない。「次元」が全く見えなくなってしまったのもそのためだ。
次元は自己側だけ見れば、「14」の空間から作られている。これがすべてカタチとして顕在化したときの状態がトランスフォーマーにおける直観形式になる。つまり、高次の思考と感情の活動の母胎だ。
ヌーソロジーはまずは、現在の人間が持った時間と空間に変わる、新しい直観形式を作ろうとしているのだと思ってもらえばいい。
ここまで30年、この「次元」について考えてきたが、おそらく、それは可能だと思う。
9月 18 2018
磁場と電場と男と女
光が最終的な精神の位置。それを「光あれ!」と言い放ち、最初の精神としたのが一神教の精神構造。光から出なければ、光を作り出した精神のもとへと歩んでいくことなどできるはずがない。思考とは、その精神へと向かわんとする本能が作り出す。
光とはすべてを中和させた精神の痕跡であり、それは絶対無の形象のようなものだ。物質はその中和に現われ出た等化の痕跡と言える。つまり、すべてが消し去られた場所では、すべてを消し去った精神のその行為の集積そのものが「あるもの」として現れ出るのであり、それらの関係そのものが光なのだ。
そして、かのOCOTは、そのような光が人間の肉体と結びつく位相のことを「妙性質」と呼んでいる。これは、すべてが中和された場所と、すべてを中和したものとの接点に出現した新たな光の精神の種子と言える。それが「妙(永遠性自体の運動)」を生み出していくのだ。
物理学は光の内部に電場の+と-と磁場のNとSという四値的関係を見出した。これは、この「妙」なる存在のフォーメーションを外から見たものだとも言える。根源的な対化が自己と他者であるのなら、人間が自己と他者と呼んでいるものは、存在そのものにおける内部感覚だと考えなくてはならない。
光の支配から出た脱-表象化の思考もこうした存在感覚から立ち上がってくる。この思考領域は、等化することが新しい差異となって現れるような世界になる。等化が統合でなく、新しいものの生産になるということ。ヘーゲルの弁証法とは真逆の弁証法。同一化への弁証法ではなく、差異化への弁証法。
キアスム的思考の出現は、当然、性愛の常識も変えていく。どこぞの「生産性発言」で注目が集まったLGBTも、性愛本来の形態として当然、存在していなくてはならないもの。今までのヘテロセクシャルへの一方的な偏向の方が異常だったのだと考えよう。世界は二元ではなく四元で活動しているということだ。
ちなみに、磁場が女を生み出し、電場が男を生み出している。磁場が付帯質。電場が精神。
物理学においても磁場には起源がない(div=0)。これは、磁束線がループ化していることを意味している。つまり円だということ。これが存在の「妙」性を象徴しているものと思われる。つまり、女には起源がない。恐ろしい(笑)
男性性と女性性の基本的な位置関係を、最も分かりやすいψのケイブコンパスであえて区分すると下のようになる(下図参照)。男性性は思形として人間の内面を構成し、女性性は感性として人間の外面を構成する。思形は言語・概念を送り出し、感性は知覚を送り出す。精神(元止揚)に方向づけられているのは女性性。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, 弁証法