9月 25 2015
僕が荒川修作氏(以後、敬意を込めて「アラカワ」と記す)を知ったのは1995年のことだった。今でもよく覚えているけど、その年、アラカワは岐阜県の養老に養老天命反転地という巨大な公園施設を作った。僕のアラカワとの遭遇は、この「天命反転」という言葉を通してだった。僕の中の反転魂がすぐに反応したのだ(笑)。開園の噂を聞き、すぐに、この新世紀の聖地となるべき場所(当時はそう思っていた)へと赴いた。 アラカワは日本で新進気鋭の現代美術家としてスタートし、瀧口修造のススメで1960年代にアメリカに渡り、生涯、ニューヨークを拠点に活動を続けた。出世作は『意味のメカニズム』というヤツで、デュシャンやハイゼンベルクといった錚々たるメンツに認められ、以後、知る人だけは知っている「世界のアラカワ」となった。 アカラワの反転イズムのキーワードには、本人もよく口にする通り、「遍在の場」「ランディング・サイト」などといったものが挙げられる。アラカワが建築、都市空間もしくは居住空間の設計を通して何をやろうとしていたのかというと、まずは「ブランク(空白)」を出現させること、と言っていいだろう。「ブランク」とは「原初的でまっさらな場所」といったような意味だが、これはヌーソロジーの奥行概念にも似ていて、遠近法的、俯瞰的視線からは逃れた、人間の意識が言語や既成概念に汚される以前の、言ってみれば、主客未分離状態における純粋経験場のようなものと言っていい。アラカワはこの空間をギブソンのアフォーダンス的な手法の延長線上に、従来の外界と身体との触発性の中に引っ張ってこようと果敢に実験を続けた。まっさらなブランクから、一体、見る者はいかにして作られてくるのか――このテーマがアラカワの全作品を一貫して貫いている。 このアワカワなる荒川修作氏に関して、一つだけ忘れがたい思い出がある。僕は1999年に『シリウス革命』という本を書いたのだが、その本に養老天命反転地のことも少しだけ書き入れた。それで、当の荒川さんにも、「あなたの他にも反転のことをマジで考えている男がここにいるんですよ」ということを知らせたくなって、再度、養老天命反転地を訪れ、出版されたばかりの『シリウス革命』を持参し、そこのスタッフに是非、荒川さんに渡して欲しいと頼んでおいた。 すると、かなりの月日が経って、突然、荒川さんからFAXで返事らしきものがきた(笑)。もちろん、本のお礼など書いてあるはずもない。そこには自分を揶揄している知識人たちに対する皮肉のようなものが、酔っぱらいが書いたような半ば読み取り不明の文字で書きなぐってあった(笑)。まぁ、全体としては自分の意見に対して僕に同意を求めているような文章だったので、彼なりに、僕を仲間と認めてくれたのかもしれない。普通の知識人なら、チャネリング本で、かつ出版元が「たま出版」とくれば、そのままゴミ箱行きになるのだろうけど、荒川さんはさすがというか、内容をちゃんと読んでくれていたようだ。でなきゃ、見ず知らずのオカルト本の著者に返事など寄越すはずがない。 そのときから、僕にとってアラカワは「愛すべきおっちゃん」であり続けている。これほどキュートなおっちゃんを僕は生まれてこのかた見たことがない。この『幽霊の真理』/ 荒川修作VS小林康夫対談集にも、こうしたアラカワのケタはずれのキュートさが全面に爆裂していて、最高に笑えたし、楽しめた。正直、お近づきになりたいタイプの人ではないが、端で見ている分には、ほんとうに痛快な人物ではないかと思う。ほんとうに惜しい人物を日本は失った。合掌。 さて、この本の中でのアラカワ発言の数々だが、以前感じたのと同じく、アラカワはヌーソロジーが見ているものとほぼ同じものを空間の中に見ているように感じている。ヌーソロジーはそれを何とか素粒子のトポロジーとして抉り出し、存在として相互了解可能なものにしようとしているのだけど、アラカワはおそらくそのトポロジーをより直裁的に感じとっていて、それを建築という形で実践化し続けている、といったところだろうか。それは、この対談本でアラカワが口にする次のような幾つかのフレーズからも容易に窺い知れる。僕にとってアラカワは常に反転イズムの大先輩なのだ。
小林 ~中略~しかし、もし個という意識そのものが消えてしまえば、目的とか、目的がないという問題すらなくなるだろう、と思います。 荒川 だから、そこで、位相的な個、いわゆる新しい「共同性」としての「場」が必要なのですよ。「向こう側」が、「こちら側」にも、そしてまったく方向の違った「場」にも出現し、使われることによって、初めて、その「無限の渦のようなエネルギーの流れ」をコントロールすることができるのです。そのエナジーを反転させるための構築作業を、私たちは進めているのですよ。p.255 荒川 イメージというのはほんとうに不思議な現象です。あらゆるものがほとんど同じところにあるんですね。遠いものと近いもの、低いものと高いもの、重いものと重くないものが、同じところにある。そして私のイメージは、全部、私が隠しちゃっている。そうすると、それを明確に開けさせるためには、どうしてもディメンションが落ちていくところがいるんですね。いま挙げた三つの対は、ここにある場というものを作り上げている条件なんです。それは、あまりにも抽象的で、無意識で、あまりにもケイオティックで、誰も手をつけなかったことです。p.162~163 荒川 いいですか、ぼくのような人間がいったい何をやろうとしているのかというと、極小と極大を同じところに置こうとしているんですよ。だから、町といったら国家を変えようとしているわけ、建築といったら生命を変えようとしているわけ。 p.241 アワカワのビジョンはどのようなカタチであれ、引き継がれなくてはならない。 ※下写真は、かつてのヌースアカデメイアの仲間たちと訪れたときの天命反転地。左より小野満麿氏、高橋徹氏、砂子岳彦氏、大野章氏、そしてワシ(2003年)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, 08_文化・芸術 • 0 • Tags: 天命反転地, 素粒子, 荒川 修作
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半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
9月 25 2015
愛すべき反転の旗手アラカワ――『幽霊の真理/絶対自由に向かうために』/ 荒川修作-小林康夫
僕が荒川修作氏(以後、敬意を込めて「アラカワ」と記す)を知ったのは1995年のことだった。今でもよく覚えているけど、その年、アラカワは岐阜県の養老に養老天命反転地という巨大な公園施設を作った。僕のアラカワとの遭遇は、この「天命反転」という言葉を通してだった。僕の中の反転魂がすぐに反応したのだ(笑)。開園の噂を聞き、すぐに、この新世紀の聖地となるべき場所(当時はそう思っていた)へと赴いた。
アラカワは日本で新進気鋭の現代美術家としてスタートし、瀧口修造のススメで1960年代にアメリカに渡り、生涯、ニューヨークを拠点に活動を続けた。出世作は『意味のメカニズム』というヤツで、デュシャンやハイゼンベルクといった錚々たるメンツに認められ、以後、知る人だけは知っている「世界のアラカワ」となった。
アカラワの反転イズムのキーワードには、本人もよく口にする通り、「遍在の場」「ランディング・サイト」などといったものが挙げられる。アラカワが建築、都市空間もしくは居住空間の設計を通して何をやろうとしていたのかというと、まずは「ブランク(空白)」を出現させること、と言っていいだろう。「ブランク」とは「原初的でまっさらな場所」といったような意味だが、これはヌーソロジーの奥行概念にも似ていて、遠近法的、俯瞰的視線からは逃れた、人間の意識が言語や既成概念に汚される以前の、言ってみれば、主客未分離状態における純粋経験場のようなものと言っていい。アラカワはこの空間をギブソンのアフォーダンス的な手法の延長線上に、従来の外界と身体との触発性の中に引っ張ってこようと果敢に実験を続けた。まっさらなブランクから、一体、見る者はいかにして作られてくるのか――このテーマがアラカワの全作品を一貫して貫いている。
このアワカワなる荒川修作氏に関して、一つだけ忘れがたい思い出がある。僕は1999年に『シリウス革命』という本を書いたのだが、その本に養老天命反転地のことも少しだけ書き入れた。それで、当の荒川さんにも、「あなたの他にも反転のことをマジで考えている男がここにいるんですよ」ということを知らせたくなって、再度、養老天命反転地を訪れ、出版されたばかりの『シリウス革命』を持参し、そこのスタッフに是非、荒川さんに渡して欲しいと頼んでおいた。
すると、かなりの月日が経って、突然、荒川さんからFAXで返事らしきものがきた(笑)。もちろん、本のお礼など書いてあるはずもない。そこには自分を揶揄している知識人たちに対する皮肉のようなものが、酔っぱらいが書いたような半ば読み取り不明の文字で書きなぐってあった(笑)。まぁ、全体としては自分の意見に対して僕に同意を求めているような文章だったので、彼なりに、僕を仲間と認めてくれたのかもしれない。普通の知識人なら、チャネリング本で、かつ出版元が「たま出版」とくれば、そのままゴミ箱行きになるのだろうけど、荒川さんはさすがというか、内容をちゃんと読んでくれていたようだ。でなきゃ、見ず知らずのオカルト本の著者に返事など寄越すはずがない。
そのときから、僕にとってアラカワは「愛すべきおっちゃん」であり続けている。これほどキュートなおっちゃんを僕は生まれてこのかた見たことがない。この『幽霊の真理』/ 荒川修作VS小林康夫対談集にも、こうしたアラカワのケタはずれのキュートさが全面に爆裂していて、最高に笑えたし、楽しめた。正直、お近づきになりたいタイプの人ではないが、端で見ている分には、ほんとうに痛快な人物ではないかと思う。ほんとうに惜しい人物を日本は失った。合掌。
さて、この本の中でのアラカワ発言の数々だが、以前感じたのと同じく、アラカワはヌーソロジーが見ているものとほぼ同じものを空間の中に見ているように感じている。ヌーソロジーはそれを何とか素粒子のトポロジーとして抉り出し、存在として相互了解可能なものにしようとしているのだけど、アラカワはおそらくそのトポロジーをより直裁的に感じとっていて、それを建築という形で実践化し続けている、といったところだろうか。それは、この対談本でアラカワが口にする次のような幾つかのフレーズからも容易に窺い知れる。僕にとってアラカワは常に反転イズムの大先輩なのだ。
小林 ~中略~しかし、もし個という意識そのものが消えてしまえば、目的とか、目的がないという問題すらなくなるだろう、と思います。
荒川 だから、そこで、位相的な個、いわゆる新しい「共同性」としての「場」が必要なのですよ。「向こう側」が、「こちら側」にも、そしてまったく方向の違った「場」にも出現し、使われることによって、初めて、その「無限の渦のようなエネルギーの流れ」をコントロールすることができるのです。そのエナジーを反転させるための構築作業を、私たちは進めているのですよ。p.255
荒川 イメージというのはほんとうに不思議な現象です。あらゆるものがほとんど同じところにあるんですね。遠いものと近いもの、低いものと高いもの、重いものと重くないものが、同じところにある。そして私のイメージは、全部、私が隠しちゃっている。そうすると、それを明確に開けさせるためには、どうしてもディメンションが落ちていくところがいるんですね。いま挙げた三つの対は、ここにある場というものを作り上げている条件なんです。それは、あまりにも抽象的で、無意識で、あまりにもケイオティックで、誰も手をつけなかったことです。p.162~163
荒川 いいですか、ぼくのような人間がいったい何をやろうとしているのかというと、極小と極大を同じところに置こうとしているんですよ。だから、町といったら国家を変えようとしているわけ、建築といったら生命を変えようとしているわけ。 p.241
アワカワのビジョンはどのようなカタチであれ、引き継がれなくてはならない。
※下写真は、かつてのヌースアカデメイアの仲間たちと訪れたときの天命反転地。左より小野満麿氏、高橋徹氏、砂子岳彦氏、大野章氏、そしてワシ(2003年)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, 08_文化・芸術 • 0 • Tags: 天命反転地, 素粒子, 荒川 修作