1月 18 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 4
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説4回目。
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(福田パート)
「魂」とは、私たちの思考や、感情や、意志の働きをもたらすものですが、この「魂」と「霊」とは違います。「霊」とは「魂」のさらに奥、さらに上位にある力で、私たちに「魂の働き」そのものをもたらしている力のことです。p.70
ヌーソロジーでは、シュタイナーの言う、こうした「魂」と「霊」の違いを「潜在化の次元」と「顕在化の次元」という表現で区別します。
これらは文字どおり、自我の意識活動を行わせている無意識の構造が見えていない状態と、それが意識に明確に浮上して意識化できている状態の関係に対応しています。
潜在化の次元は別名「付帯質の外面」とも呼ばれ、偶数系の次元観察子が先行する意識領域です。
一方、顕在化の次元は「付帯質の内面」とも呼ばれ、こちらは奇数系の次元観察子が先行します。
大系観察子のケイブコンパスで表現すると、付帯質の外面・内面の関係は下図のような流動を行っています(下図参照)
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(福田パート)
同時に「霊」は宇宙創造の根源力でもあります。そして、霊の中核にあって霊を宿す器が本来の「自我」であり、自我を霊で満たしていくことが「真の自我性」を形成していくことなのです。p.70~71
シュタイナーのいう「真の自我性」とは、ヌーソロジーでいう付帯質の内面の顕在化に当たるということが分かるのではないかと思います。
「付帯質の外面」とは、分かりやすく言えば、物の外部性のこと、つまり、時間と空間の世界のことです。
一方、「付帯質の内面」とは物の内部性のことで、この方向へと潜在的な変換を行っているのが、物理学が「素粒子(物質粒子)」と呼んでいるもののことと考えるといいです。
そして、この潜在的な変換というのが人間の無意識の活動に当たると考えるといいと思います。
ですから、素粒子の構造が人間の意識に描像化されてくることは、そのまま、付帯質の内面の顕在化に相当してくることになります。
顕在化は時空においては原子領域として反映されています。その意味で、ヌーソロジーでは「原子とは霊の反映である」と考えます。
2月 12 2019
ハイデガー哲学をトランフォーマーの空間に移し替えてみた
ハイデガー哲学の基本的な概念をヌーソロジーが用いるケイブコンパスにマッピングしてみた(下図)。観察子概念のイメージを広げるための参考にしてほしい。ほんとうは大系観察子で示されるべきものだが、分かりやすくするために、ここでは次元観察子で配置している。次元観察子と大系観察子は入れ子的な構成になっているので、それほど意味合いは逸脱しない。
ということで、少しだけ解説しておこう。
ここに示した「存在者」とは外的に認識されている事物のことを指す。図からも分かるように、それはΨ9(思形)の働きによって送り届けられるが、ここで送り届けられるものとは存在自体が転倒したものである(赤が先手になってしまうところにそれが示されていると考えるといい)。
このΨ9の働きに対して、存在は自分自身を人間に委託するための方向性を逆の方向に生み出す。それがΨ10(感性)の働きであり、ここに、存在へと方向を向けた存在者の次元が生み出される。ハイデガーはそれを「現存在」と呼び、人間の根本的な在り方とした。人間は存在の守り人(牧人)でもあるというわけだ。
さて、こうやって、存在、贈与(Es-gibt)、存在者、現存在という四者の関係性をケイブコンパスに配置すると、「存在は自分自身を存在者として明るみに出すと同時に隠れる」という、ハイデガーが執拗に連呼する「アレーテイア(非隠蔽性)」の仕組みが、比較的たやすくイメージできてくるのではないかと思う。
図からも分かるように、存在者として明るみに出された事物はΨ9方向に認識されるか、Ψ10方向に認識されるかという二つの方向を持っている。これが客観的事物(実在的対象)か、主観的事物(感覚的対象)の違いだ。ハイデガーが『存在と時間』で行った現存在分析も、主にこの二つの対象の違いをめぐるものだった。
たとえば、科学のように、人間を生物学的な存在として見てしまうと、人間は存在者一般の中に投げ込まれてしまい、現存在としての存在への方向付けは失われてしまう。このような思考態度はハイデガー的には「頽落」の産物となる。存在がまったく忘却されているということだ。
ハイデガー哲学が目指したのは、そのような頽落から逃れて、現存在としての人間がいかにして、自らの通底に潜む存在を開示し、このEs-gibt(贈与するもの)を含む全体的な機構の中で、存在全体を了解するかということにあった。
その了解によって、今までの形而上学が等閑にしていた存在者と存在の差異(存在論的差異)がはっきりと認識されることなる。
ハイデガーのいうところの「真理」=〈アレーテイア=非隠蔽性〉というものも、その認識への思考の到達のことを意味している。
ハイデガーが言ってることは、個人的にはまったく正論だと思う。ただ、こうしたハイデガーの表現ではもう時代が受け入れないだろう。やはり、神秘主義的で根拠に乏しい。とりわけ、科学との接点がないのは致命的だ。科学が存在者の構造の学であるなら、アレーテイアの仕組みがその構造にどのように介入してくるのか、当然、科学の言葉でも表現することが可能なはずである。
ヌーソロジーはこうした存在論的構成をそのまま素粒子構造と結びつけ、開示されるべき脱-自(存在を露わにすること)の構造は素粒子に潜んでいるということを示していく。
「存在へと身を開き、そこへと出立つ在り方」とは、人間自身が自分自身の根拠を素粒子に見るところに生まれるということだ。
そして、ヌーソロジーはこの理念型を持って、迫り来るAI時代にそのカウンターとして生まれてくるメタヒューマンの在り方とする。それがまた「トランスフォーマー」の定義でもある。
人間が目の前から〈幅〉を取り去るとき、脱自としての〈奥行き〉が存在の名の下にその姿を露わにしてくることだろう。そこにおいてすべては世界-内-存在と化す。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, ハイデガー関連 • 0 • Tags: アレーテイア, ケイブコンパス, ハイデガー, 大系観察子, 次元観察子, 素粒子