2月 5 2021
哲学から霊的思考が消え始めている
以前、カンタン・メイヤスーの思弁的実在論を批判する内容の論考を提出したのだけど、今回、日本を代表する哲学者とも言われてる、野矢茂樹氏の「眺望論」と「相貌論」からなる新手の実在論に、ヌーソロジーの観点から「ちょっと、待った!!」をかけた。
哲学の世界は、21世紀になってからというもの、実在論の流行の兆しがある。
実在論とは、簡単に言えば、人間の意識とは関係なく、外の世界が存在しているとする考え方のことだ。
20世紀までは、哲学者たちの多くは、人間の意識(思考)と世界は分かち難いものと考えていた。
まぁ、簡単に言うと、オレがいなきゃ、世界もねぇ~だろうという、誰でも一度は考えたことのある考え方のことだ。
これは、メイヤスーが「相関主義」という言葉で一括りにした考え方のことでもある。近代以降の大陸哲学(ドイツ・フランスの哲学)はずっと、その枠組みの中で思考してきた。
しかし、ポストモダンの哲学がソーカル事件でその信用を失墜してからというもの哲学者たちの多くが外部の実在の方を中心とする思考に舵を切った感がある。メイヤスーに代表される新実在論の流行などもその影響が大きい。
まぁ、これほどまでに科学テクノロジーが世の中に影響を与える時代になったのだから、「今さら何が無意識だ、アプリオリ(人間の経験以前の意識)だ」ということなのだろう。
こうした相関主義の哲学を人間の内的な方向から乗り越えようとしていたもの。
それが、ヌーソロジーとも相性のいいハイデガーやドゥルーズの哲学だったと考えるといい。
(ベルクソンやメルロポンティ等、20世紀のヨーロッパの哲学は概ねこの方向にあった)
存在論というのは、ハイデガーが言い出した用語だが、私見では、この用語は古代のヘルメス主義的世界観を、哲学を通して語り直そうとしているものだと考えていいように思う。
事実、ハイデガーやドゥルーズ はグノーシス神学にも深く精通していた。
いかにして怪しさを消してグノーシスを語るか。
生きのいい、奥深い哲学と言うものは、人間の中に眠る霊性を意識し、つねに、その方向にあった。
ハイデガーが「存在」と呼ぶものや、ドゥルーズ が「差異」と呼んでいるものは、誤解を恐れずに、ごくごく平易な言い方をするなら、実は「霊」のことなのだ。
だから、こうした存在論系の大陸哲学が、21世紀になって哲学の世界から駆逐されていくことは、哲学から霊的思考が締め出しをくらい始めていることに等しい。
今回、題材として上げた、野矢氏の実在論も、どちらかと言えば、分析系(英米が主流)の哲学からの派生を感じさせる。
(野矢氏自身、ヴィトゲンシュタインが専門だった)
野矢氏の語り口は、師匠の大森荘蔵氏(ヌーソロジーでもおなじみ)の芸風を受け継いでいて、誰にも理解できる日常的な言葉で、素朴実在論を擁護する独自の哲学を語っている。
野矢氏の実在論は、その意味で、大森の知覚正面=心という考え方を、ある意味では継承し、世界と心の一体化を射程においた哲学だ。
その気持ちはすごく分かるし、一見、「日本人ならではの哲学」のように感じるところもあるのだが、霊性感覚はひ弱いように思える。やっぱり、頭脳の人なのだ。
ヌースでいう「人間の内面(時空)」が先行している。
だから、存在論的な思考の方向にはなく、何とも、深みに欠ける哲学になっている。
ただ、今の日本の哲学界では第一人者と言われる人でもあるので、興味がある人は、ヌーソロジーの立ち位置と比較する意味でも、一度、読まれてみてもいいかもしれない。
『心という難問 空間・身体・意味』 野矢 茂樹
※半田広宣メールマガジン「AQUA FLAT」より転載
7月 15 2022
【武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所】研究動画シリーズ#009
「主観空間と客観空間の間における存在論的差異について」というタイトルでの研究発表です。
<補足として>
今回の研究所の研究動画で取り上げた、客観空間と主観空間との間の本質的な違いというヤツ、少しは皆さんにも伝わっただろうか。
私たちは普段、外の世界を見ていると思っているが、見えている世界は実は外ではなかった、という気づき。
この気づきがないことには、ヌーソロジーの思考はスタートを切ることができない。
「見えている世界は外」というのは私たちの常識でもあるから、ヌーソロジーのこうした主張に、それだけで思考停止状態に陥ってしまう人たちも多いのではないかと思う。
それだけ、私たちは外の世界、つまり、客観世界に根を張って、自分の認識する世界を組み上げているということだ。
そのような世界の認識の仕方を一度エポケー(判断停止)して下さい、ということ。この辺りはフッサールの現象学に似ている。
ただ、ヌーソロジーが現象学と根本的に違うところは、自分の3次元的な位置さえもエポケーするところ。
客観世界をエポケーするのであるから、3次元空間上の自分の目は存在しないも同然となることが分かる。というのも、3次元上にある自分の目は、三人称視点によって捉えられている物であるから。一人称視点では、ドゥルーズがいうように「眼とはスクリーン」となって現れていて、客観的な3次元の位置にいる「自分」という存在は消えてしまう。
それによって、現象の現前は、大森の言うように、不動の知覚正面としての”4次元的位置”へと変わるということ。
この位置の移動によって、客観世界としての4次元時空に対して、主観世界としての4次元空間(虚時間世界)というものが立ち上がり、動画でも紹介したように、そこに”存在論的差異”があることが了解されてくる。
ヌーソロジーでは、そこから、量子論との接合が始まっていくという筋書き。
その意味で、大森が直観した「面体分岐」の面と体の分岐とは、立方体の「体」と、その一つの「面」との分岐ではなく、3次元空間としての「体」と、知覚正面としての「面」との分岐として考えないといけない。
哲学をやっている人でも、この辺りの大森の真意を理解している人は少ないように思える。
つまり、私たちが、物の手前に感じ取っている自分の位置とは、本当は3次元的な手前ではなく、4次元的な手前になっているということなんだね。
とにかく、見られているものの空間と見ているものの空間を3次元と4次元に分離させて考えることが必要だと思うよ。
その視点を獲得し、そこから4次元の思考が始まると、空間の見え方や物質の見え方も、大きく様変わりしてくる。
見えている世界は同じなんだけど、見え方がまったく変わるのね。
それはそれは、本当に素晴らしい世界。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 03_動画 • 0 • Tags: ドゥルーズ, フッサール, 大森荘蔵, 量子論