7月 19 2013
空間について考える ヌースビギナーズ1
空間について考えるときのコツ。奥行きには3次元と4次元が重なっていると考えましょう。モノから広がる空間は3次元ですが、観測者から広がる空間は4次元です。「モノを見る」ということが起きている空間はこうして3次元と4次元が重なり合っていることになります。
さて、観測者から広がる空間にも二つあります。つまり、4次元には二つの種類があるということです。一つは他者の周りに広がっている空間。もう一つは自分の周りに広がっている空間です。前者が4次元時空で、後者が4次元空間です(実数空間で言えば)。まずはこれらの区別をしっかり把握しましょう。
今の一般的な空間認識はこれらの空間の違いがすべてゴチャッていて、4次元時空で統一されています。見るものと見られるものの区別が全くついていないのです。この混雑化が無数の「宇宙のウソの常識」を作っています。
その最たるものが「人間がいなくても宇宙はある、あり続けている」という考え方です。素朴実在論と言います。6500万年前に恐竜が存在していたとか、137億年前にビッグバンが起こったとかいう類いの話は、こうした「人間がいなくても宇宙はある」という考え方に支えられています。
しかし、モノから広がる空間は3次元です。ここには時間の要素がありません。つまり、瞬間でしかないということです。ですから、純粋にモノだけの世界は存在することはできません。そんな世界でどのようにして出来事が起こるというのでしょう。この素朴実在論の呪縛から解かれる時が迫っています。
さて、もう一歩突っ込んで、他者だけが存在している世界を想像してみましょう。そこには時空はあります。しかし時間は常に流れて行くものです。異なる一瞬一瞬が次々と現れ出てきます。しかし前の一瞬、さらにはその前の一瞬……というように一瞬の連なりの記憶がなければ時間の流れは分かりません。
「世界は4次元時空です」と得意げに言う人たちがいますが、それは他者しかいない宇宙と考えた方がいいでしょう。見てる自分も他者のように見立てて、実際に見えている世界、4次元空間から離脱してしまっているのです。
僕が「奥行き」についていつもブツブツつぶやいているのも、この奥行きこそが流れる時間の記憶をすべてストックしている4次元空間(実数的には)だと考えているからです。
ヌーソロジーではこのように時間の流れを把持(一気に持つ)できている奥行き世界のことを「人間の外面」、単なる時空の世界のことを「人間の内面」といいます。ここからびっくりするような認識の転回が起こります。
つまり、時空とは見えない世界だということです。
7月 19 2013
わたしたちはモノの内部にいる ヌースビギナーズ2
今日は「わたしたちは実はモノの内部にいる」ということについて簡単にお話しておきます。 この感覚をしっかりと把握するためには、まずは時間の成り立ちというものについて考えなくてはなりません。
まず、時間は最低でも二つの要素で成り立っていると考える必要があります。一つは継起の時間。もう一つが持続の時間です。普通はこの二つの要素がごっちゃになって、「時間が流れている」という感覚が意識に生まれています。
たとえば時計の針がカチ、カチ、カチと音を立てて時間を刻んでいくときの情景を思い浮かべてみましょう。このとき、一つの「カチ」の音が継起に当たります。一方「カチ、カチ、カチ」を一気にまとめてイメージしているときが持続です。
音楽なら一つの音符がポンとなったときが継起です。「このメロいいなぁ」と音符の流れを一気にイメージしているときが持続です。 継起は瞬間にすぎないので、この二つの要素がないと、音楽を音楽として感じ取れないし、時間もまた流れとして感じることができないことが分かります。
以前、「人間の内面」と「人間の外面」という相互に反転した空間の形を紹介しましたが、この時間における二つの要素が生まれている場所は、そのままこのそれぞれの空間の形の中に当てはめることができます。
物理学が示唆する内容から見ると、継起が生まれているところが「人間の内面」で、持続が生まれているところが「人間の外面」です。(下図参照)
「人間の内面」側はモノの手前に自分がいると思っている空間です。「人間の外面」側は単にモノが見えている空間です。いつも言ってるように、この二つの空間は互いに反転しています。この二つの球空間をクリアにイメージしたいときは実際にモノの周りを回ってみるといいでしょう。
そのとき、モノの手前側を半径とする円とモノの背後側を半径とする円の二つが生み出されてくるのが分かります。モノの手前側を半径とする円は継起する時間が生まれているところに当たります。「遠くは過去だ」というように、モノと自分との間の距離はそのまま時間の長さになります。
一方、モノの背後側を半径とする円の方は持続の場所と考えられます。皆さんも何かに熱中しているとき時間があっという間にすぎる経験をされたことがあると思いますが、そういうときは、モノの手前にいる自分というものが意識されてないときです。つまり、持続の中に直接、身を置いているわけです。
この二つ球空間の関係が実数次元で言うならば、4次元時空(人間の内面)と4次元空間(人間の外面)の関係に当たります。
さて、ここからが重要なところです。4次元時空の方はモノの”手前”にいる自分がイメージされていますから、モノとこのイメージされた自分との間に「距離」というものが想定されています。いわば、主体と客体が分離しているわけですね。
しかし、4次元空間の方にはもはや「モノの手前」といった場所は存在せず、そこにはモノの背後の奥行きがあるだけです。ましてや、この奥行き方向の線は点にしか見えないので、時空から言えば、極限にまで縮んでいるとしか言えないような線です。
つまり、この持続が詰まった奥行きの線は時空側においてはモノと認識されているものの中に小さく小さく縮んで入り込んでいる、ということになります。
こうしてわたしたちはベルクソンがその哲学的直観のもとに言った「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである。」という言葉の意味を幾何学的描像を持って正確に理解できることになります。
「わたしたちはモノの内部にいる」 のデス。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, 入門編, 外面と内面